松井村

総説

現状

松井村は所沢町の東に連接し、北は富岡村、東は柳瀬村にして、西南は吾妻村、南は柳瀬川を隔てゝ多摩郡に境せり、大和田所沢街道、村内を貫き、川越鉄道は西境を走れり。

柳瀬川は吾妻村より来て、南境を流れ、谷戸の小流(久保川とも云)は所沢町より来て、村の中央を東に流れ、少しく東北に向て、柳瀬村亀谷に入る。

土地概して高燥にして陸田及雑木林多し。土質は軽鬆也。然れども柳瀬川沿岸狭長の地域は土地低く、壌土質にして、水田あり。甘藷、茶、綛、麦、生糸の産あり。又笊の製造あり。安松笊の名、古より高し。陸軍飛行場の敷地は大半此村の地にかゝり、現在地域七十一町歩、近く拡張の上は全百町歩を占ひべしと云ふ。武蔵野の原頭、昧爽音響高く機船の天に冲するを見るも亦時勢の進歩なる哉、下新井牛沼上下安松の四大字より成る。戸数四百六十、人口三千百九十。

沿革

松井村の地方は中古の安松郷の地なるべし。然れども其開化の徴すべきは後北条氏以後の頃にあり。

後北条氏の時に当て、柳瀬村に一城砦あり。北条氏照の瀧山城に属し、頗る此地方に影響を与へたり。即ち柳瀬松井地方の社寺にして、此時代に創立若くは造営せられたるものあるべく、柳瀬村本郷坂下等の地は基礎を此頃に定めたるが如く、松井村に属する安松が、今の上安松本宿、下宿の辺に於て小宿駅をなせしも其頃ならん。江戸時代に至ても安松は大村にして其包括する処大なりしと伝へられ、武蔵野話によれば、「南秋津(吾妻村)も宝永の頃までは安松村と見え、其不動堂の境内の庚申塔に安松村と記せり。又清戸も安松の新田にて菅沢村の入口故清戸と称せしと覚ゆ。清(きよ)字菅(すが)の訓あり。戸は入口の義なり。清戸に二寺あり。安松村の安松山長源寺の山寺号を二に分て二寺の山号寺号とせしを以て知らる」と。但南秋津、清戸は今東京府多摩郡也。且野話の言ふ所稍々吟味を要すべきあり。安松村元一村にして、其上下に別れたりしは正保以後にあり。而して笊の生産は頗る村の発展を助けたるならん。

下新井は野話によれば下新居と書したるが如く、「野老沢村の下新居なりしが、何時の頃よりか別村となれり」と記せり。牛沼の如きは、古くより所沢村に属し、亨保九年七月分割して枝郷牛沼分と称し、風土記にも一村として載せず、安松下新井の境界を述ぶるに当て、唯牛沼分又は牛沼新田と記したり。維新の後牛沼村となる。松井村は大抵支配地たりき。唯一時一地方のみ或は采地となり、或は川越領となれるとあり。明冶元年知県事に属し、二年品川県、韮山県、四年入間県となり、十七年下新井連合をなし、二十二年松井村を組織せり。松井はそれ安松新井を採て名けしものならん。

下新井

下新井は村の西方に位し、所沢町に接し、町を隔てゝ遙かに上新井と呼応せり。谷戸川、村道に沿ふて流れ、人家連れり。其北は飛行場なり。人家百余。

熊野神社

所沢町より此村に入れば、約二三町にして、道の左側に神社あり、熊野祠と云ふ。境内広く、老杉あり、社殿清素也。二三の末社あり。入口の石華表、眼に着き易し。傍に華表建設の小碑あり。当村の人鈴木源一氏の選文にして、三たび華表を起てたる由来を明にせり。境内に竹山石、花剛石両華表の残骸尚横はれるを見る。武蔵野話によれば、「熊野祠権現の叢祠あり。何れの比祀りしや詳ならず。神職三上氏世々之を守れり其墓に石碑あり。中間より折れたり。三十年前野老沢村の畑より穿出したるを三上氏、自己の墓地へ移置けり。青石にて三体仙人を書き、後面には文明十七天乙巳十一月十六日結衆敬白と記し、左右に氏名を列記せり。此村三上倉片の氏を古しとなす」と。是れ文化年代の見聞なるべし。

新井不動堂

熊野祠の左に隣り、路傍にあり。

地蔵堂

村の東にあり。

桜神社

一名本居神社と称し、下新井分山林中にあり。小祠也。

牛沼

牛沼は下新井の東に連り、人家四五十戸。

閻魔堂

堂の下に沼あり。形臥牛に似たるを以て牛沼の名称起れりと云ふ。

神明社

長栄寺

村の東にあり、焼失後仮舍を設く。

上下安松

上安松は牛沼の南に当り、戸数百四五十。東西十町、南北十二三町もあらん。 人家は多く柳瀬川に沿へる低地、若くは低地と高台の間にあり。

下安松は上安松の東に接し、東西七八町、南北十余町もあるベく、人家百二三十、上下安松の中間、普通中安松と称する処あり。行政上乃至正式の名称にあらずと雖、土人は専ら中安松として之を目するが如し。

中安松に寺あり。安松山長源寺と云ふ。崖に拠り、陸田を前にし、小門あり、鐘楼あり。小宮あり、小堂あり。本堂は最近の新築にして、亜鉛の屋根高く樹間に突出し、遠方人目を索く。又大芝徳山和尚寿蔵碑あり。然れども寺観の盛衰到底古今時を同して語るベからざる也。鐘の銘文に曰く、南游浮提大日本東海道武蔵国入間郡下安松村長源禅寺者傑用禅師開闢而大石道春公之草創加之自東照公世々賜印之古寺………元禄十三年七月 と。道春公とは大石源左衛門定久入道道俊にして北条氏照の養父也。寺は元天台の伽藍にして、此辺の土中、布目ある瓦及骨壺等を出せしとあり。其壺小にして、何れも茶毘せしものなるを認めしめしとかや、上安松に山王祠あれど、古は境内の鎮護なりと云ふ。台教伽藍の廃滅せしは何れの頃にや。其後北条氏開基となり、傑用徳英和尚開山となり、曹洞宗の伽藍となす。多摩郡山入村乾晨寺末にして、天正十九年寺領十石の朱印を賜はれり。徳英は元亀三年寂し、本堂には北条氏の位牌と称し、古色蒼然、文字認むベからざるものを安置したりき。或は大石道俊の位牌か。一説に氏照なりと云へど如何にや。寺宝に北条氏の文書及鞍鐙等ありしが、天明寛政年代の回録に遭ひ之を失へりと云ふ。

氏照院

青霄山と号す。本尊は薬師にて北条氏照の守本尊たりし像を腹籠りとして造立せしとやら。位牌あり。青霄院殿透岳関公大居士、慈雲院殿勝巌傑公大居士、その中央に天正十八年七月六日と記せり。此寺氏照歿して其近臣等遺骨を葬り、一寺となし、氏照の諱字と院号を取て名けたりと云ふ。慈雲院は氏照の兄左京大夫氏政の諡也。然れども小田原記天正十八年七月十一日の条に北条氏政今年五十三歳従四位下左京大夫平朝臣截流軒と号す、氏照陸奥守従四位下平朝臣心源院と号す、兄弟自害し給ふ云々とあり。又多摩郡由木永林寺の伝には骨は彼の寺に葬ると称し、又元八王子宗関寺にも氏照の墓と称するものあり。何れも追福のために修せしものなれば何れが実の葬所なるを知らず。氏照院は廃寺となれり。

長源寺の西方、高台中復、樹木の間に小祠あり。亜鉛の屋根と覚しき、僅かに見ゆ。是れ恐く日枝社なるべく、又寺の東に続きて、石階あり、石階の上氷川社あり。更に下安松の中央、村道の北に入ると二三町にして幽邃なる一祠あり。稲荷祠なりと云ふ。更に東し柳瀬村との境に近き所、復一小祠あり、崖の中復にあり。熊野神社なりと云ふ。