沿革
所沢に就て知り得べき昔は鎌倉時代に始まる。鎌倉街道は今の実蔵寺西の細道にして、南は吾妻村久米に出て、北は河原宿を遇ぎて、小手指村に出づ。沿道を元本宿と称し、所沢市街の旧地也。河原宿の如きも或は街道筋の宿駅たりしに因るか。
道路既に斯の如し。之を以て南北朝の戦乱は屡々此街道に沿ふて行はれ、所沢の如きも人家烏有に帰せしこと少からざりしならん。然も鎌倉に公方あり、管領ある限り、鎌倉街道は関東の公道たるべく、所沢の宿も亦此公道に沿ふて南北に連れる人家群たらざるを得ざりし也。鎌倉全く史上に頭角を没して、小田原の世となるに至ては所沢の位置稍々変化なき能はずと雖、未だ大差あらず。然るに一朝江戸開府の事あり、江戸秩父街道、所沢町を東西に貫くに至ては、新しき人家は何れも其道筋に集て、新なる繁昌を享有すべく、遂に南北の宿は本宿の名を止めて、人家東西に列をなすに至りし也。野話に曰く、「野老沢村は天正文禄の頃までは鎌倉道の方河原宿と、本宿、金山に家居せしが、建●の後漸々に今の地に移り住居することゝなりぬ」と。事実に当れり。
所沢町、元所沢村にして、而して野老沢(ところざわ)村と記せしものゝ如し。実蔵寺の山号を野老山と号するが如き、廻国雑記に「ところ沢と云ふ所へ廻覧にまかりけるに福泉と云ふ山伏、観音寺にて竹筒とり出しけるに、薯蕷といへる物希に有りけるを見て、俳諧
野遊びのさかなに山の芋をへて、ほり求めたる野老沢かな。
とあり。以て証すべし。野老沢の地域広し。上下新井も其中なりしと云ふ説あり。元禄十三年処沢と改め、享保中本村地内を分裂し枝郷牛沿を設く。所沢和英学校主高松多喜次氏、曽て町の沿革を調査せしことあり。其時町の旧家倉片氏にて発見したる文書は、寛永十六年卯十一月三日、毎月三八日の市を立つることの請願成就したる旨を記し、扇町屋商人八十四人上坐、会田長右衛門、中村勘解由、入間川鴻崎多平、当所三上四郎右衛門、倉片助右衛門と署名せられたりしと云ふ。思ふに南北の宿より東西の邑となりし所沢は、人家の増加し、扇町屋商人の商区となるに従ひ、寛永の頃より遂に関係地方とも協議の上、官に請ふて三八の市を立つることゝなりしものゝ如し、是れ彼の「所沢のボロ市」なるものにして、商業徐々発達し、明治二十七年川越鉄道の開通より更に一段の活気を呈し、四十三年飛行研究場の設けらるゝに及て、町運更に一層の進展をなせり。
天正十八年以後の所轄、大抵支配地にして、明治元年知県事に、二年品川県に、次で韮山県に、四年入間県(三大区一小区)に、六年熊谷県に、九年埼玉県に、十二年入間高麗郡役所に属し、十七年に至て所沢上新井、久米北秋津連合となり、二十二年連合を解き、所沢に加ふるに上新井の河原宿及久米の金山を以てし、之を三大字となして所沢町を成立せり。所沢新田は富岡村に譲れり。