所沢町

現状

所沢町は郡内南部の市街地にして、北は富岡村、東は松井村、南は吾妻村、西は小手指村に接せり。川越鉄道の駅路に当り、道路は川越、大井柳瀬、東村山(東京府)、山口、青梅、豊岡等八方へ走れり。川越町を去る四里、豊岡町を去る二里半也。郵便電信局あり、特設電話局あり、警察署あり、区裁判所出張所あり。銀行、織物市場あり。別に有名なる陸軍飛行研究場もありて、戸数一千三百五十二、人日六千九百四十九。大約七千と注すべし、郡内第二の都会也。

土地一般に高台にして、井戸の深きこと驚くべきものあり。南部は一層高し。織物、生糸の取引盛にして、藍、茶、甘藷等は名産也。所沢上新井、久米の三大字より成れど、上新井、久米共に所沢に比すれば微々たるのみ。故に一括して之を説述せんとす。

沿革

所沢に就て知り得べき昔は鎌倉時代に始まる。鎌倉街道は今の実蔵寺西の細道にして、南は吾妻村久米に出て、北は河原宿を遇ぎて、小手指村に出づ。沿道を元本宿と称し、所沢市街の旧地也。河原宿の如きも或は街道筋の宿駅たりしに因るか。

道路既に斯の如し。之を以て南北朝の戦乱は屡々此街道に沿ふて行はれ、所沢の如きも人家烏有に帰せしこと少からざりしならん。然も鎌倉に公方あり、管領ある限り、鎌倉街道は関東の公道たるべく、所沢の宿も亦此公道に沿ふて南北に連れる人家群たらざるを得ざりし也。鎌倉全く史上に頭角を没して、小田原の世となるに至ては所沢の位置稍々変化なき能はずと雖、未だ大差あらず。然るに一朝江戸開府の事あり、江戸秩父街道、所沢町を東西に貫くに至ては、新しき人家は何れも其道筋に集て、新なる繁昌を享有すべく、遂に南北の宿は本宿の名を止めて、人家東西に列をなすに至りし也。野話に曰く、「野老沢村は天正文禄の頃までは鎌倉道の方河原宿と、本宿、金山に家居せしが、建●の後漸々に今の地に移り住居することゝなりぬ」と。事実に当れり。

所沢町、元所沢村にして、而して野老沢(ところざわ)村と記せしものゝ如し。実蔵寺の山号を野老山と号するが如き、廻国雑記に「ところ沢と云ふ所へ廻覧にまかりけるに福泉と云ふ山伏、観音寺にて竹筒とり出しけるに、薯蕷といへる物希に有りけるを見て、俳諧

野遊びのさかなに山の芋をへて、ほり求めたる野老沢かな。

とあり。以て証すべし。野老沢の地域広し。上下新井も其中なりしと云ふ説あり。元禄十三年処沢と改め、享保中本村地内を分裂し枝郷牛沿を設く。所沢和英学校主高松多喜次氏、曽て町の沿革を調査せしことあり。其時町の旧家倉片氏にて発見したる文書は、寛永十六年卯十一月三日、毎月三八日の市を立つることの請願成就したる旨を記し、扇町屋商人八十四人上坐、会田長右衛門、中村勘解由、入間川鴻崎多平、当所三上四郎右衛門、倉片助右衛門と署名せられたりしと云ふ。思ふに南北の宿より東西の邑となりし所沢は、人家の増加し、扇町屋商人の商区となるに従ひ、寛永の頃より遂に関係地方とも協議の上、官に請ふて三八の市を立つることゝなりしものゝ如し、是れ彼の「所沢のボロ市」なるものにして、商業徐々発達し、明治二十七年川越鉄道の開通より更に一段の活気を呈し、四十三年飛行研究場の設けらるゝに及て、町運更に一層の進展をなせり。

天正十八年以後の所轄、大抵支配地にして、明治元年知県事に、二年品川県に、次で韮山県に、四年入間県(三大区一小区)に、六年熊谷県に、九年埼玉県に、十二年入間高麗郡役所に属し、十七年に至て所沢上新井久米北秋津連合となり、二十二年連合を解き、所沢に加ふるに上新井の河原宿及久米の金山を以てし、之を三大字となして所沢町を成立せり。所沢新田富岡村に譲れり。

社寺

神明神社

所沢字宮前にあり、村社也。元花光院(明治二年廃寺となる)別当たりし時、文政九年社寺共に焼失し、古記を失ふと云へり、或は曰く日本武尊此地に休息し給ふと、境内に一丈三尺の老欅あり、境内甚だ広濶、樹木鬱蒼たり、境内社に蔵殿、八雲、疱瘡、水天宮、琴平等の諸社あり。

薬王寺

所沢裏町にあり、東光山自性院と号し、始は臨済宗なりしが孝山俊和の時より曹洞となれりと云ふ。久米永源寺に属す、俊和は慶長十九年寂す、其後数回の火災を経て、今は仮本堂を立つ、堂の後庭風致可也、寺に一の伝説あり、南北朝の頃新田義宗勢衰へ、従者と共に此処に隠逃し、草庵を設けて住すること十余年にして逝けり依て庵を寺となし、其遺物を寺宝とし、其墓を設けたりと、其墓石近年までも存し、今は境内に、正四位下右近衛少将新田義宗朝臣終焉之地の標石を立てたれど、容易に信ず可からず、風土記に記せる胄立台は今なく槍及鏡を存す、以て義宗の遺物となす。

実蔵寺

所沢上町にあり、野老山と号し、真言宗にして開山を元融と云ふ、詳細は伝はらず、安政年間火事あり、今の本堂は嘉永中の建造に係ると云ふ、庫裡あり、小堂あり、寺の傍の小路は古の鎌倉街道也。

新光寺

上新井河原宿にあり、遊石山観音院と号す、新義真言宗也、寺の由来に曰く、昔右大将頼朝奈須野狩に打立ち給へる時、此辺を歴経せられ此処にて昼餉を行はる、其仮の小屋を建つぎ、田地を寄進して観音を安置せしが其後戦場となり、寄田を掠奪せられしを元弘建武の乱に新田左中将義貞、此寺に至り再び寺田を寄附せりと荒唐也。廻国雑記に福泉といへる山伏、観音寺にてとあれば文明の頃は既に一寺たりしならん。其後中絶し数十年を経て中興せる時の開山賢能、天正七年示寂せり其後弘化二年回禄に罹り、今に至るまで仮堂を建つるのみ。

不動院

所沢に在り、明治二十七年一寺となる、天台宗也。

鬼子母神

所沢に在り、明治二十八年創立。

飛行場

陸軍飛行研究場は町の東北部より、松井富岡二村に及び、明治四十三年の創設にして、漸次建物を増し、今は気象測定所、格納庫、軽油庫、機関庫、兵舎、軽気球格納庫、工場等を設け、敷地も七十町歩、更に拡張して百町にせん計画もありといふ。

初葺

野老沢の家の後に流あり、川の北に斉藤氏あり、此宅地北は高く自然の小山なる故稼穡の忙しき頃乾物其他皆此小山の上にて乾す。

此小山の後一面に松を植えし芝地あり、六月下旬より八月中旬まで毎日初葺二三十或は五六十も取ることあり。(武蔵野話第二編ノ一)