山口村地方は鎌倉の頃、既に開けたるものゝ如し。村山党の中、山口氏あり。其後連綿として南北朝若くは戦国の頃まで継続せしが如し。山口村即ち当時は山口郷にして其包括する処甚だ広し。後世山口領の下に一団とせられし村、入間、多摩に亘りて、九十二村あり。本村は蓋し山口郷中の山口たる也。
鎌倉古道の跡は大字山口によりて、其打越及氷川と称する小字にかゝれり。城あり。市街あり。曽て整然厳然たる一区を為せしものゝ如し、上山口には観音の大堂あり。勝楽寺には勝楽寺大坊あり。全村古蹟甚だ多し。
江戸時代は采地支配地相並び、明治元年知県事に属し、二年品川県となり、次で韮山県となり、四年入間県(三大区二小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年山口、上山口、勝楽寺及荒幡連合を作り、二十二年荒幡の吾妻村に入るや、三村続て連合せしが、三十五年に至り合して一村となり。従前の村域を以て大字となせり。