勝楽寺

勝楽寺は山口村の西端にして、山間の別天地とも称すべし。古勝楽寺大坊あり。依て名けて勝楽寺村と云ふ。鎌倉街道あり。

七社神社

古記なけれど伝説には近江国月吉山王を分祀寺と云ひ。或は式内国請地祗社ならんと云ふものもあり。七社とは勝楽寺各字に鎮坐せる社跡六ヶ所ありしを何時の頃か之を此処に合して七社と名けしものならんと云ふ。凡て皆否也。風土記に曰く蔵王、聖女、八王子、大行事、手御子、副行事、権現の七坐を祀ると。此の種の神社の性質上風土記の説を首肯せざる能はず。社は高台にあり。正安、寛永、天明等の年代に社殿の造修営あり。村社にして、四十年無格社一を合し、四十一年指定村社となる。

勝楽寺

辰爾山仏蔵院大坊と称す。真福寺末也。創立甚だ古く、或は王辰爾の子其父の菩提の為めに開闢せりと云ふ。又王辰爾此地に於て終焉せしとの説もあり、野話に曰く、「山号を辰爾と云ふは恐らく敏達天皇の時、高麗より送れる鳥羽の表文を読み得たる王辰爾の墳墓あるがためならんか。」と然れども王辰爾は畿内にて死し、畿内に墳墓を有するが如く推定せらる。思ふに辰爾の後裔此の地に入り、此の寺をたてたるにや。野話尚曰く、「昔高麗人の来りし時、此の地に来り土地を見立てし上、今の高麗郡に住居なさしめ、其地に寺院なきを以て勝楽寺の住僧彼の地へ寺を建て、高麗山勝楽寺と同名を以て名けしならんと云ふ。後聖天を祀りし故、聖天院と云ふ」と。又曰く、「勝楽寺往古は大伽藍なり、鎌倉将軍の世々祈願所にして、十二の坊ありしが、鎌倉滅て次第に衰へ、今は七社権現の祠と勝楽寺大坊のみ残れり。十二の坊は其跡みな田畑となり、新田坊、テラウ坊、天狗坊、向坊、外坊、長明坊、東坊、北蓮坊、永源坊、勝般寺と地名に残れり。然れども三坊の名所知れず。大坊の鐘は延久の比のものなりしが。災に遇ひて、亀裂を生ぜし故、元禄年間改鋳して、延久の銘を刻り出し之に追加を加へり」と。又曰く、「大坊の西南堂地入と云ふ小地名あり。此の地より布目ある瓦を夥しく穿出せり。国分寺の瓦に似て重きこと、鉄の如し。又村中古き石碑(石の板碑也)処々にあり」。と。

城山

根古屋城とも龍ヶ谷城とも云ふ。勝楽寺の東部、上山口と接する処、狭山々脈の山上にあり。現今城跡と認めらるゝは南北五十間、東西四十間、北は峯続き、南は急坂にして、西は数丈の谷、東に池あり。山角(やまずみ)彦三郎の住城にて山口城の属城なりと云ふ。依て山角城とも云ふ。或は星見小太郎の住せし処と。野話に曰く、「七社の北の山に城跡あり。氷禄天正の比にや山住彦三郎と云へる人の住める城なる由、土人の話也」。と。

旧家に就て

野話は更に曰く、此村の旧家二十五ありしが、今は十四のみ。石川、野村、荒畑、池田、北田、高橋、内野、斉藤、二見、久保田、木下、荻原、中山、神谷あり。旧家二十五軒の外に粕谷氏も古しと云ふ。二見氏の家に古証文一通、旗印を紙に記したるありと。風土記は粕谷氏と二見氏を出せり。

近衛殿屋敷に就て

野話は又曰く、「大坊の南の山に近衛殿屋敷あり。何故なるを知らず。昔永峰二年十月中旬長尾輝虎関東を鎮めんため、近衛龍山公父子を介輔して関東人越山ありしことあれどもしばらくも此の地に駕を止めしをきかず。」と。