山口
山口は村の東部を占めたる大村にして、古来独立せし村落六七を以て一大字を成せり。曰く岩崎、曰く堀内、曰く町谷、曰く打越、曰く氷川、曰く菩提木、是也。其の合して山口村と称せしは明治七年なりと云ふ。戸数総計約三百。
氷川にあり。中古兵灰に罹り、社殿烏有となりしかば、徴すべき憑拠なけれど、式内社なることは口碑に伝へたり、或は曰く此社、大宮町一宮氷川と多摩郡柏ノ保郷氷川との中間に位し、何れに赴くも里程八里あり、依て中氷川と称すと。信ずべからず。社に天正十八年禁制書、元亀三年山口平四郎資信奉納の表具一軸あり。又付近に出でし、布目瓦、土器、石簇、石斧、石剣の類を蔵せり。元禄二年社殿造営、明治五年郷社となり、四十年村社一、無格社九を合す。四十一年指定村社たり。神職山口氏、即ち元の普賢院也。然るに野話によれば氷川社は昔は氷川村の農民粕谷氏の持ちなりしを農隙乏しきにより享保の初頃より普賢院別当たるに至れりと云ふ。
岩崎にあり。曹洞宗にして、久米永源寺末、祥雲山と号す。山口氏の菩提寺也。開山照室慧鑑、天正元年十二月寂すと云ふ。然るに照室は中興開山なるが如し。寺に二基の古霊牌ありき。一は本願信阿大禅定門貞治六年丁末九月十八日とあり。是れ即ち山口平内左衛門高清にして、之を里伝寺伝に考へ、且史書に合すに、南方紀伝若くは桜雲記に出でれる正平二十二年(即ち貞治六年)二月五日関東の宮方平一揆、河越の城に籠れりとの事実に符合し、閏六月河越落ち平内左衛門同九月に至て、河越付近若くは、山口城に死せるものならん。又一基、故参州大守満叟実公大禅定門永徳三年癸亥六月十三日とあり。是れ即ち、平内左衛門の父山口三河守高実にして、之を当時の史に徴するに、永徳三年四月は小山義政が足利氏満に滅されて小山の叛一段落を告げたる時なれば、南朝方なりし山口氏の小山に党せるはずなく、党して逆境に陥らざる筈なく、六月に至て或は自仭し或は殺害せられたるものならん。寺に乗鞍、槍、茶臼、茶釜等を存す。山口氏が納めたる所なりと云ふ。墓地に五輪塔一基あり。文字は不明なり。又寺に、護良親王の像ありと云ふ。寺は江戸時代に至て、地頭宇佐美氏、及久具氏の墓所たり。
堀内にあり、瑞幡山と号す、臨済宗妙心寺派也。古は建長寺末なりと云ふ。此の辺の寺院多くは一たび済家たりしに、今日依然棒喝を以て一世を睥睨するもの、唯此一寺あるのみ。山門高く、鐘楼あり、庭前の大松自ち高風あり。開山は石門年代不明、中興普光勝智。天正年代の人也。本尊白衣観音。
堀内にあり。天光山無量寿院と号す。曹洞宗にて多摩郡二又尾海禅寺末、開山栄芝順富、天正十年六月寂す。本尊阿弥陀如来の縁起に至ては、奥州藤原秀衡の守本尊を鎌倉へ運ばんとして、車輪中途にして進まず、仏意に従て遂に此地に止まるに至りし旨を仔細に記せり。元の寺地は今は小学校となれり、為に堂は後方に退て、殆ど民家の観を呈せり。庭前建長八年辰二月廿三日と記せる板碑あり。
来迎寺より、山に入り、少しく西北に赴けば、峯の薬師あり。鐘あり。音甚だよし。伝ふる者曰く。或人金を貯へて死せり。死に臨て頗る怨あり。乃ち亡霊出て、告げて曰く、某所に貯へたる金あり。以て鐘を作る可しと之に由て村人此鐘を鑄ると。
町谷にあり、川島山釈迦院と号す。新義真言宗にして中藤真福寺末也。開創年月不明。或曰く、開山尊崇、文明年中の創立にして開基は岩岡民部少輸入道一乗なりと。明治四十二年打越の常応寺に合す。寺は柳瀬川の南岸にして寺地は山口城の土塁にかかれり。
打越にあり。真福寺末也。
菩提木にあり。菩提山仏国寺と称す。真福寺末、開山囚清元和八年寂せり。寺に近く菩提の古木あり。寺の裏に陣鉦堂あり。
堀内、打越、町谷に跨る。大字山口の中央より稍々西方にて、柳瀬川の岸にあり。現在城跡と認め得るは南北百二十間、東西百五十間、大手口は西方なりしと。東方塁の中に児(ちご)ヶ池(いけ)あり。池の辺高さ七八尺乃至一丈許の土塁を存す。更に城は柳瀬川の南にも出て、北方の山腹にも及びしが如く、共に低き土塁の跡を存せり。思ふに山口氏此辺に住し、時代の進ひに従て斯の如き城塁を構ふるに至りしならん。其落城は貞治六年高清の時とし、或は永徳三年高実の時とし、成は山口主膳正の時氏康に攻められたる時とし、或は天正十八年小田原攻囲の時とす。何れなるやを知らずと雖、系図は主膳の時の事とせり。或は然らん。児ケ池は二三坪の小池のみ。然も落城の時山口氏夫人児を抱て死せりと云ひ、或は一人の児童馬を馳せて池中に死せりと伝ふ。一種の説話也。
字御国と云ふ処にあり。狭山々脈中也。高四五尺の塚上に古椿二株あり。新田義貞(茲には義貞といへり)が陣中食事の時、箸に代用せし椿の枝を挿したるものゝ生育したるりと。
東北部にして、山口城より十数町。城の大手なりしと云ふものあり。