勝楽寺

辰爾山仏蔵院大坊と称す。真福寺末也。創立甚だ古く、或は王辰爾の子其父の菩提の為めに開闢せりと云ふ。又王辰爾此地に於て終焉せしとの説もあり、野話に曰く、「山号を辰爾と云ふは恐らく敏達天皇の時、高麗より送れる鳥羽の表文を読み得たる王辰爾の墳墓あるがためならんか。」と然れども王辰爾は畿内にて死し、畿内に墳墓を有するが如く推定せらる。思ふに辰爾の後裔此の地に入り、此の寺をたてたるにや。野話尚曰く、「昔高麗人の来りし時、此の地に来り土地を見立てし上、今の高麗郡に住居なさしめ、其地に寺院なきを以て勝楽寺の住僧彼の地へ寺を建て、高麗山勝楽寺と同名を以て名けしならんと云ふ。後聖天を祀りし故、聖天院と云ふ」と。又曰く、「勝楽寺往古は大伽藍なり、鎌倉将軍の世々祈願所にして、十二の坊ありしが、鎌倉滅て次第に衰へ、今は七社権現の祠と勝楽寺大坊のみ残れり。十二の坊は其跡みな田畑となり、新田坊、テラウ坊、天狗坊、向坊、外坊、長明坊、東坊、北蓮坊、永源坊、勝般寺と地名に残れり。然れども三坊の名所知れず。大坊の鐘は延久の比のものなりしが。災に遇ひて、亀裂を生ぜし故、元禄年間改鋳して、延久の銘を刻り出し之に追加を加へり」と。又曰く、「大坊の西南堂地入と云ふ小地名あり。此の地より布目ある瓦を夥しく穿出せり。国分寺の瓦に似て重きこと、鉄の如し。又村中古き石碑(石の板碑也)処々にあり」。と。