小手指村は郡の南部に位し、北は富岡村、東は所沢町、南は吾妻村、山口村、西は三ヶ島村に隣接せり。所沢豊岡街道、所沢青梅街道、所沢五日市街道、村内を通じ川越鉄道も又東北部を通過せり。
地勢南境に丘陵あり。長者峯最も高し。其他は一円高平の原野也。小流二条あり。谷戸川は三ヶ島より来て所沢町に流れ、砂利川は富岡村に入る。
陸田多く、森林もあり。地味甚だ肥沃なりと云ふ能はず、綛、茶、甘藷の産あり。戸数六百三、人口三千七百五十六。上新井、北野の二大字あり。
小手指村は所調小手指ヶ原の地方にして、一茫原野たりし処也。然れども古往全く原野のみにはあらずして、人家聚落を呈せしことありしならん。
鎌倉街道は所沢町実蔵寺脇より北して、勿論村内の地へもかゝしこと疑なく。人家の自ら生ずべきも想像するに難からず。然れども元弘以来戦乱幾回、住民遂に散乱し、土地も空しく曠野に帰せしが天正の末より、開けて、再び旧に倍する村落となれり。或は小田原北条の頃も漸次家居を増しつゝありしにや。
所轄は采地にあらずんば支配地にして、明治元年知県事、二年品川県となり次で韮山県たり。四年入間県に入り、(上新井は三大区、一小区、北野は三大区二小区)六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年上新井は所沢連合北野は三ヶ島村連合に入る、二十二年小手指村を成す。
小手指の名称に就ては未だ其の由来を明にせず。或は曰く、日本武尊此地に来り、小手をかざして前方を眺め給へるにより名くと。或は曰く武器より生ずと。或は曰く、小手指ヶ原とは原野の名にあらずして、原野に生ずる荊棘の名にて鄙言の転染せるなり。(中略)葉は長春と云ふものゝ如く、花は白く長春の如くにもあらず。小なる棘針(とげはり)多く、農民等草刈するもの、其手足を剌され、取除け難し。殊に此荊一面に蔓延し、余の草を茂らしめず。名けて小手刺荊棘(こてさんばら)と云へり。昔は此辺入間野にして、広漠たり。此草茂りしにより小手指原の名を生じたるなるべしと。何れも従ふ能はず。
上新井は村の東半を占めたり。戸数二百弱。所沢町を隔てゝ松井村下新井の地と相呼応するもの也。或は曰く昔弘法大師此処に井を穿ち、清冷の水を得たり、依て村名を新井と名くと。今も三ッ井戸と称するものあり。然れども俗説採るに足らず。野話が新井を以て所沢村の新居なりとせるは稍々傾聴するに足る。上新井の北部に石鏃を出す。
六所脇にあり。村社也。府中の六所神社を勧請すと云ふ。
上洗山無量寺と号し、真言宗也。古は草庵に過ぎざりしを何れの頃か一寺とせりと云ふ。元三井の付近にあり。里伝によれば行基(此処には行基となれり)東巡せる時此地に至り土人の為に三井を祈願し、井の此方に草庵を構ふ、天正中重誉中興して一寺となし、寛文年中今の処に移す。と。
東方にあり。所沢町に近し。谷戸川に沿ふて今は二井あり。井底河床よりも高し。然も川は水屡々絶ゆれども、井は終古深碧なりと云ふ。里人之を奇とす。
阿弥陀堂のありし処なり。板碑を出せしと云ふ。
北野に近し。山口城の大手口木戸のありし処なりと云ふ。稍々考を要するが如し。
北野は村の西半を占めたり。戸数三百。
元北野天神社と称せしが、近来は県社、国請地蔵社、物部天神社、天満天神社と称せり。古社にして或は延喜式内、物部天神社ならんと云ふ。其の後菅原天神を勧請し、遂に北野天神社と称せらるゝに至りしならん。社に応永四年足利氏満の文書あり。
寄進武蔵国北野天□
同国山口郷内北野宮
並田畠在家□
右任先例致沙汰□
神事之状如件
応永四年八月二十五日
左兵衛督源□花押(源の次は朝の字の上半あらはる。必ず朝臣ならん。)
風土記に引用せるは大なる誤あり。旧蹟考に掲げたるは頗る要領を得りと雖、尚一二の微瑕あり。応永四年正月小山の乱全く平げり。されば氏満社領寄進の挙に出でしものならん。此外天文十一年以下約十通内外の交書あり。風土記に掲ぐる所と一二の出入あり。中にありて天正十八年小田原攻の時のもの多し。前田利家等頗る意を用ゐたるを知るべし。菅公一代の書幅もあり、山口城主山口平四郎資信の寄進なり。本社、弊殿、拝殿整ひ、境内広濶、樹木鬱蒼たり。社伝里伝等によれば、日本武尊、国司菅原修成、源頼義、義家、足利尊氏、前田利家等の神体勧請の挙に出で、或は社殿造営の事に当りしを伝ふ。境内に尊桜、大納言梅等あり。神職は栗原氏也。最近富岡村の小手指明神社を合祀せり。
梅林にあり、梅林山と号す。宝暦元年九月焼失して古記を失へり。口碑によれば昔北野に真言、天台、臨済、曹洞、八個寺ありしが、何れも衰頽せり。今八ッ寺なる地名あるは、八寺の跡なりと。今も其辺稍しく堀れば古瓦を出すと云ふ。永禄元年多摩郡宝光寺の顧山明鑑、古来の八寺を合し、全徳寺を立て、之が開基となり、永禄十一年寂す。寺は明治十三年復焼失し、翌年今の堂を建つ。
砂利川に架せり。元弘の役新田軍が誓詞を交はせし処なりと云ひ伝ふ。演路は足利尊氏なりとせり。
演路によれば誓詞橋の辺の古土手にて、十三四町続けるものを云ふと。
富士塚、白旗塚、展望台、立野(元楯野と記せりと云ふ)等は陣地なりとせられ、椿峯は義興が椿の枝を箸として食事をなせし処なりと云ふ。村内より徃々にして武具の破片を出すこともありと云ふ。
君がため身のため何か惜しからん捨てゝかひある命なりせば、
宗良親王