北野

北野は村の西半を占めたり。戸数三百。

北野神社

元北野天神社と称せしが、近来は県社、国請地蔵社、物部天神社、天満天神社と称せり。古社にして或は延喜式内、物部天神社ならんと云ふ。其の後菅原天神を勧請し、遂に北野天神社と称せらるゝに至りしならん。社に応永四年足利氏満の文書あり。

寄進武蔵国北野天□

同国山口郷内北野宮

並田畠在家□

右任先例致沙汰□

神事之状如件

応永四年八月二十五日

左兵衛督源□花押(源の次は朝の字の上半あらはる。必ず朝臣ならん。)

風土記に引用せるは大なる誤あり。旧蹟考に掲げたるは頗る要領を得りと雖、尚一二の微瑕あり。応永四年正月小山の乱全く平げり。されば氏満社領寄進の挙に出でしものならん。此外天文十一年以下約十通内外の交書あり。風土記に掲ぐる所と一二の出入あり。中にありて天正十八年小田原攻の時のもの多し。前田利家等頗る意を用ゐたるを知るべし。菅公一代の書幅もあり、山口城主山口平四郎資信の寄進なり。本社、弊殿、拝殿整ひ、境内広濶、樹木鬱蒼たり。社伝里伝等によれば、日本武尊、国司菅原修成、源頼義、義家、足利尊氏、前田利家等の神体勧請の挙に出で、或は社殿造営の事に当りしを伝ふ。境内に尊桜、大納言梅等あり。神職は栗原氏也。最近富岡村小手指明神社を合祀せり。

全徳寺

梅林にあり、梅林山と号す。宝暦元年九月焼失して古記を失へり。口碑によれば昔北野に真言、天台、臨済、曹洞、八個寺ありしが、何れも衰頽せり。今八ッ寺なる地名あるは、八寺の跡なりと。今も其辺稍しく堀れば古瓦を出すと云ふ。永禄元年多摩郡宝光寺の顧山明鑑、古来の八寺を合し、全徳寺を立て、之が開基となり、永禄十一年寂す。寺は明治十三年復焼失し、翌年今の堂を建つ。

誓詞ヶ橋

砂利川に架せり。元弘の役新田軍が誓詞を交はせし処なりと云ひ伝ふ。演路は足利尊氏なりとせり。

万里堤

演路によれば誓詞橋の辺の古土手にて、十三四町続けるものを云ふと。

陣地と称せらるゝもの

富士塚、白旗塚、展望台、立野(元楯野と記せりと云ふ)等は陣地なりとせられ、椿峯は義興が椿の枝を箸として食事をなせし処なりと云ふ。村内より徃々にして武具の破片を出すこともありと云ふ。

君がため身のため何か惜しからん捨てゝかひある命なりせば、

宗良親王