元北野天神社と称せしが、近来は県社、国請地蔵社、物部天神社、天満天神社と称せり。古社にして或は延喜式内、物部天神社ならんと云ふ。其の後菅原天神を勧請し、遂に北野天神社と称せらるゝに至りしならん。社に応永四年足利氏満の文書あり。
寄進武蔵国北野天□
同国山口郷内北野宮
並田畠在家□
右任先例致沙汰□
神事之状如件
応永四年八月二十五日
左兵衛督源□花押(源の次は朝の字の上半あらはる。必ず朝臣ならん。)
風土記に引用せるは大なる誤あり。旧蹟考に掲げたるは頗る要領を得りと雖、尚一二の微瑕あり。応永四年正月小山の乱全く平げり。されば氏満社領寄進の挙に出でしものならん。此外天文十一年以下約十通内外の交書あり。風土記に掲ぐる所と一二の出入あり。中にありて天正十八年小田原攻の時のもの多し。前田利家等頗る意を用ゐたるを知るべし。菅公一代の書幅もあり、山口城主山口平四郎資信の寄進なり。本社、弊殿、拝殿整ひ、境内広濶、樹木鬱蒼たり。社伝里伝等によれば、日本武尊、国司菅原修成、源頼義、義家、足利尊氏、前田利家等の神体勧請の挙に出で、或は社殿造営の事に当りしを伝ふ。境内に尊桜、大納言梅等あり。神職は栗原氏也。最近富岡村の小手指明神社を合祀せり。