三島

三ヶ島は村の東部を占めたり。戸数約二百。石鏃を出すと多し。

中氷川神社

堀之内に近く青梅街道の南に沿へり元長宮明神と称したりしが、祭神の氷川神社に同じきと長宮の中宮に転じたるものゝ如きと、彼の正長の棟札に中氷川社造営とあるによりて中氷川社と称するに至れり。社殿壮大ならずと雖も、頗る古雅也。境内広大ならずと雖も、頗る幽静也。神槻周囲三丈にも近からん。既に半朽ちたり。社に応仁二年の日本記写本三十巻を蔵す。甚が破損せりと云ふ。

妙善院

青梅街道の北五六町の処に在り。光輪山と号し、曹洞宗也。開山呑碩承応元年寂す。開基は地頭沢氏也。古は寺山と称する処にありしを、後此処に移せるなりと云ふ。村内に於ける大なる寺院也。

実玉院

街道の北に在り、古は東島山と号し後稲荷山と改む、新義真言宗に属す。

常楽院

実玉院の北に位し街道の南に接する高台に在り長坂山薬王寺と号す。真言宗也。薬師堂及石尊社あり。

照明院

廃寺

龍蔵院に就て

風土記に曰く、「本山派修験也。応長元年良円と云ふもの起立す。此良円は宮寺五郎の子にて初宮寺小太郎家吉と称し此処に蟄居し。優婆塞となり云々」と。此の記事注目の価あり。龍蔵院阿れにありしや。未ざ詳ならず。

古戦場

下田にあり。小流に沿ひて梅樹あり。太平記に載する花一揆が梅の枝を折りし処なりと云ふ。

仲氏に就て

仲氏は三ヶ島の旧家也。風土記に曰く「先祖を仲筑後守資信と云ふ。古尾谷の城主なり。資信の男を近江太郎信重と云ふ。信重と云ふ名は中永川社正長の棟札にも見えたり。信重の男蔵人将監資重より子孫今に至る」云々。中永川社祭礼の時は必ず仲氏第一に祭事に預ると云ふ。按ずるに古谷村善仲寺南畑村万蔵寺、西蔵寺等の伝にも、仲筑後守、古尾谷近江太郎の事蹟を伝へたり。其の伝説を併せ考ふるに混乱して弁じ難ければ、姑く茲に家伝のまゝを載す」と。