金仙寺
小田原時代には堂入と称する処にありしが其后衰亡に垂んとするに及び慶安年中復興し今の処に寺堂を建てたりと云ふ真言宗也。
三ヶ島堀之内は村の南部にあり。戸数六七十。堀之内の名称は郡内一般の例を以てすれば館跡の所在地なるが如し。未だ検を得ず。
小田原時代には堂入と称する処にありしが其后衰亡に垂んとするに及び慶安年中復興し今の処に寺堂を建てたりと云ふ真言宗也。
風土記に曰く「先祖は勝楽寺村リウカイの城主豊後入道伏見小太郎或は星見小太郎と称するものあり)の家人にして、筑後守と称し、三ヶ島に居れり。小田原陣の時にや、リウカイの城攻め落され、村内別所山とて四方十町許の山へ、豊後入道の弟子七人を具して隠れ住み、農耕を事とし子兵庫助まで二代谷山に居れり。今の与平次山クボ屋敷跡は其旧所なり」と。
南方の一山也。此辺より曲玉、管玉、石斧、石鏃を出す。又付近の塚より土鍋を発見したるとあり、千年前のものなる可しと云ふ又山に二十年前方一間深一丈、底方二間程の穴を発見したり。又山の南五町ばかりにして「猪落し穴」といふ所あり三ヶ島分一、山口分一、宮寺分一ありて何れも其面影を存す蓋し近古猪を追落せしめて之を獲りし処ならん。