縄竹
村の南部、東京府と接し、狭山の余脈北、西、南の三方を限り、東の一方柳瀬川に沿ふて勝楽寺村に出づべし。故に此地、地勢上明に勝楽寺に加ふべしと雖、沿革上宮寺村に属せるものゝ如し。気候温暖、戸数二十四。
村の南部、東京府と接し、狭山の余脈北、西、南の三方を限り、東の一方柳瀬川に沿ふて勝楽寺村に出づべし。故に此地、地勢上明に勝楽寺に加ふべしと雖、沿革上宮寺村に属せるものゝ如し。気候温暖、戸数二十四。
矢寺、荻原の二村を合して矢寺荻原と称し、又略して矢荻と称せしが、更に近来は矢荻を南北に分てり。縄竹の北に位し、丘陵を隔てたり。矢寺の名称の起原に就ては滑稽なる一説あり。採用すべからず。
矢荻及小ヶ谷戸の西にして、人家百余、村役場、小学校、隔離病舍等皆此地にあり。
堯恵法師の北国紀行に文明十九年六月廿八日、武蔵野の内、中野と云ふ処に平重俊といへるが催に囚て云々
露払ふ道は袖より村消の草葉に帰る武蔵野の原。
日高くさし昇りて云々
夏しれる空や富士の根草の上の白雪暑き武蔵野の原。
堀兼の井近き云々など載せたるは或は此の地にや。小字北中野は普通土屋新田と称せらる。土屋氏の開きし新田なるか。否か。土屋家譜によれば、土屋甚助利常。天正十七年駿府に於て東照宮に謁し、奉二百石の地を爰にて賜はりしこと見ゆ。天正十七年と云ふと少しく怪しむべきも、大体は然る可し。子孫相嗣ぎ、此地を知行す。其墳墓今尚、長久寺跡の畑間に存す。
狭山とも称す。中野の西南にして、狭山(山脈)の北麓に当れり。人家二十五。
中野の西に当る。陸田測量部二万分一地図は頗る坊村の位置を誤れり。街道旧蹟考に曰く、坊村とは例少き村なり。最勝王院(此名称不可)の坊などありしにや。と。
宮寺村の西部にして、寧ろ元狭山村二本木と接続し、地理上当然元狭山村に入る可くして、然も数回の紛争の結果今は宮寺村の中に入れり、戸数約三十、中央に洋風の高塔聳えたるは是れ天主教々会なりと聞えたり。全村悉く筬及下駄表の製造に従事し、二本木の筬の名殊に市場に信用あり。