社寺

出雲伊波比神社

中野にあり。山際に接せり。元寄木明神と称し、村人は今も「ヨタヰ」様と呼べり。然るに例令焼失数回なりしと雖、社の体裁の古色深き、祭神の素盞烏尊なる等は延喜式神名帳に出でたる出雲伊波比神社ならんとの説出て、近年毛呂村飛来明神と共に出雲伊波比神社と称するに至れり。社地は高台にして、老樹あり。境内幽雅也。社殿も文化、文政の頃までは、本社、幣殿、拝殿、頗る整然たるものなりしが如し。社に弘治三年小田原北条よりの棟別朱印達の文書ありと云ふ。又石剱及御シヤク神三本ありと云ふ。村の鎮守也。社後に有名なる茶場の碑あり。

八幡神社

中野南端にあり。神体は石剣にして、長六尺のもの一、四尺五寸のもの一あり。今より百四五十年前、新開地に移住せしもの井を穿たんとせしに、地下五六尋にして之を得たるなりと云ふ。小なる石剣は鍬に触れて折れたり。

武塔天神社

中野にあり。祭神不詳なれども、或は素盞嗚尊ならんと云ふ。社地の辺は元土屋氏の祖、住せし処なりと云ふ。村持なりしが維新後民有となれり。

神明神社

大森の北部にあり。

熊野神社

矢荻にあり。

山祗神社

矢荻にあり。

西勝院

矢荻にあり。宮寺山無量寿寺と号す。新義真言宗にして、多摩郡中藤真福寺末也。中興の開山を知養と云ひ、元和五年十一月十五日寂せり。今の本堂は草尾根にして、古風、頗る大也。山門なく、二本の大杉立てり。又閻魔堂あり。風土記に曰く。

相伝ふ。此寺に昔宮守西勝と云ふもの住せりと。西勝の事は記録なく、知るに由なしと雖、東鑑にも正嘉の頃の人に宮寺蔵人政員など見えたれば、西勝は其族なるにや。

と。一説也。里伝によれば寺地は宮寺五郎家平の居地にて、其の間南北朝の頃加納下野守の住せし処、今は境内に土居の跡を見る。寺は何れの頃開創せられしやを詳にせずと雖、古は今の大御堂の地に存し、慶長十年中興開山智養。改めて加納氏の館跡に移せるなりと云ふ。文化年中火災あり、其十三年再興す。明治四十二年円乗寺を合せり。

大御堂

矢荻にあり。元西勝院のありし処にして、今堂宇及天王祠を存す。宮寺家平手植と称する堂側の大杉は落雷のため枯木となれり。本尊弥陀、行基の彫刻と号す。古の額には大弥堂と記せしと云ふ。又古は別に小御堂あり、大小相対せりとも相伝ふ。

長久寺

中野にあり、浄悦山涼光院と号し、真言、真福寺末にして、中興頼喜、正徳年代の人と伝ふれども、安政三年及明治二十二年焼失して、今殿堂の跡なく、僅に馬鳴(めめう)堂を存す。俗呼てミンメウ様と称し、養蚕の守護神なりと云ふ。神体は馬上の像、土屋氏が奈良より持ち来りし処と称す。例祭三月十九日とす。堂の東に土屋氏の墓地あり。大石塔七基、小石塔三基、麥秀の中に立ち、人をしてそゞろに古を忍ばしむ。明治四十二年地福寺と合す。又北中野には古小御堂ありしが廃絶の後其地に地蔵堂を建て、長久寺に附属せしめしも、今其跡なく、僅かに残りし小御堂の小名さへ消失するに至れり。

清泰寺

小ヶ谷戸裏にあり。宿峯山と号し、真言宗、中藤真福寺末也。開山を頼栄と云ふ。三世智養元和五年寂せり。今の本堂は明治六年の造立にして、寺は今村役場たり。

崇巌寺跡

大森にあり。大森山と号す。地頭大森好長の開基にして、好長法名を崇巖院と云ふ。依て寺名とせりと云ふ。寺は既に久しく廃寺たり。其鐘及び額は清泰寺に移せり。里伝によれば大森氏幕府の許可を得ずして、寺を建て、為めに厳命を蒙て之を毀ち仏躯を清泰寺に納めしなりと云ふ。

円乗寺跡

小ヶ谷戸にあり。真言宗、開山智賢正保三年寂す。寺は明治四十二年西勝院に合せり。庭前に虚明僧正の独鈷松と称するものありき。

大聖寺

にあり。高瀧山辺照院と号す。真福寺末。

太子堂

武蔵野話に曰く、村に古より聖徳太子堂あり、と堂は今荒たり。

長福寺

野話に曰く、「太子堂を守りし寺は臨済にて、長福寺と云ふ。開山は桃源宗悟にて永徳二年九月四日示寂、其後寛文九年二本木へ移す。其の時の住僧は關宗玄脱なりと、今寺分と云ふ畑は長福寺の跡なる由。天文二年二月吉日と記し、三体の仏像を描ける石碑此寺境内にあり。又五輪の台石あり。平氏長尾藤四郎とあれど年代知れず」と。長福寺今は長久寺に合せり。

狭山観音堂

山際にあり。西久保観音と称す。行基作観音の像なりと云ふ。其の像は二体ありしに、一体は六部に盜まれしと伝ふ。