市街発達の里伝及所轄

村譜考によれば天暦の頃(天暦とは疑はし)佐平治なるもの、入間川の南岸に沿ひて草叢を開き、居を定む。それより一族繁昌し、別に来住するもの年々加はりて、元暦(疑はし)の頃には既に部落を成し、山田郷三芳野里と云ひ、後入間郷と呼びしものゝ如し。南北朝時代には整然たる村落をなし、入間川合戦の時は多数村民徴発に応じ糧食器仗の輸送に任せるが如し。応永年代多治見将監あり。文禄三年松田左馬之助あり。と。

北条役帳に松田左馬之助百五十貫文入間川卯検地辻と見ゆ。江戸時代の所轄は川越領となり、采地となり、支配地となり、幕末の時は其凡ての混合也。故に采地支配地は明治元年知県事に属し、二年品川県より韮山県となり、四年入間県となる。川越領は二年川越藩、四年川越県より入間県(三大区七小区)となり全村一に帰せり。六年熊谷県となる、明治七年戸数三百十五、人口千四百。九年埼玉県に属し、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年上奥富と連合し、二十二年単独の自治体となる。二十四年入間川町と改称す。二十七年以後戸口急に加はる。是れ川越鉄道の為也。而して一方飯能越生方面の産出物資の集散地となり、加ふるに水利の便は工業家の認むる所となり、続々投資経営するもの起りしによる。四十年以来聊か逡巡の観なきにあらずと雖、商工地として進歩の余地あること大なるべし。毎月一五を市日とす。開市の起原は八幡社内、「入間川邨市場之碑」に明也。明治四年に始まりしと云ふ。