奥富村
総説
現状
奥富村は郡の中央に位し、東は日東、堀兼二村、南は入間川町に接し、西は入間川を隔てゝ柏原村に対し、北は少しく入間川の彼岸に地域を有して、霞ヶ関村と隣境せり。川越町を去ると西南二里、入間川町を去る東北一里弱、川越鉄道、川越八王子街道は並行して、村の東南部を走れり。
東南は土地高燥にして陸田多く、西北は低地にして水田を主とす。赤間川は入間川町より来りて東北に流る。其他一二の用水あり。
土質高台は埴土質にして肥沃ならざれど、亦瘠ろ(石偏に鹵)ならず、菜蔬穀菽に可、桑樹にも不可ならず。低地は礫質壌土にして米穀に可也。但表土浅し。養蚕業、機業も近来盛にして、米穀に次げる産額あり。人口二千九百二、戸数四百六十、上下奥富及柏原新田の三大字より成る。
沿革
奥富村の名古くより見ゆ。村内の梅ノ宮に存する応永中の鰐口には入東郡奥富郷と記し、北条役帳には三ッ木(堀兼村に属す)と並ベて、三田弾正少弼の領地八十貫文入東郡上奥泉(泉は富の誤ならん)と見えたり。斯の如く村の成立古くして、恐らく天文の頃には上下二村に分れしものなるか。徳川氏関東に入りてよりは川越領たり、宝永元年支配地となり、上奥富は天明元年(或いは明和四年という)再び川越領となりて松平大和守に属し、次て松平周防守に属し、明治維新以来川越藩、川越県等の変遷を経、下奥富は延享三年田安家の領となり、文政中、復た支配地となり、天保中其一都を割て采地とし、明治元年知県事、二年品川県、韮山県を経て、四年上下両奥富共に入間県(三大区七小区)に入り、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所の所轄となり、十七年上奥富は入間川連合に入り、下奥富柏原新田は山城連合に入る。二十二年奥富村となる。柏原新田の来歴は別に記せり。
上奥富は村の南部を占め、人家百六七十。享保の頃開墾せる新田は支配地なりしが、明治の始め上奥富に合せり。
承和五年戊午正月十一日、山城国葛野郡梅津郷梅宮神社を分社せるものにして、応永年代には村内小名を西方瀧と称する処にありしを、後今の地に移せる也。嘉永六年十一月廿日火災に罹り焼失せしも、奉武州入東郡奥富郷応永三十三年、西方瀧梅宮鰐口五月三日と記せる鰐口を遺存せり。慶応元年十二月十日再建す。明治四年村社となり、四十二年八月現制に於て又村社に指定せらる。此社元安産を祈るに霊験あり。近郷の婦女懐妊する時必ず祈請し、社下の砂を持ち帰りて、孕婦の枕下に置く時は安産す。願満つる時は又捧持して元の処へ置くを常例とせり。昔は本地梅宮十一面観音を安置し、秘仏とせしが、今は神仏厳別の世、如何にせしか知らず、末社に稲荷社、八幡社あり、外に尚五六の小社もあり。境内樹木多く、社後に古木あり、富士岳神社の丘あり。此辺水田の間に古墳の全形若しくは其一半を存するもの多し。
龍尾山成就院と称し、真言宗にして、上奥富全般を檀徒とせり。石井村大智寺末也。開山詳ならざれど、第十四世広海慶長十九年六月寂とありし由なれば、古寺なるを知るベし。
上奥富の北に当り、村の北部を占む。戸数二百五六十。
字大芦にあり。旧無格社自髭神社、寛弘三年三月十七日の創立也。天保三年三月再建す。明治四十年八月一日入西村善能寺村社笠山神社を合祀し、亀井神社と改称せり。更に同時に柏原新田無格社八雲神社を合祀せり。四十一年八月指定村社となる。
字子袋にあり。創立年月不詳、旧よりの産土神にして、明治五年村社となり、四十二年四月一日無格社、八幡、神明、浅間、三島、厳島及愛宕神を合祀せり。
天台宗仙波中院未、薬王山地蔵院と称し、開山尊栄、永禄十一年当寺を草創し、天正十二年七月十一日寂せり。其後元和九年家康川越に放鷹し、当寺へ渡御し、其後も渡御あり、寛永元年十一月十五日、二年十一月、三年二月八日、四年二月十三日、七年二月十五日の六度に及ベりと云ふ。其時の休息室を賜はり、松平伊豆守より之を客殿に用ふベき旨伝達あり。後回禄にかゝれり。境内に御詞の梅あり。家康其花盛りを賞せしものなりと云ふ。然れども家康は元和二年に甍ぜり。寺伝甚しく誤れり。楼門に安永三年九月と刻せる鐘を掛く。
柏原新田は村の西部に当り、入間川を隔てゝ、対岸の柏原村と呼応せり。寛永の頃柏原の農民五郎右衛門と云ふもの此地を開発せるを以て名く。人家二十内外、開発の始は堀田加賀守に属し、次で松平伊豆守、松平美濃守、秋元但馬守に属し(川越城付)たりしが、其後支配地となり。安永九年長野佐衛門の采地となり、維新以来の変遷下奥富に同じ。
村内に存せし八雲神社は下奥富亀井神社に合祀し、又寺堂り如きも、何れも柏原村に檀那寺を有するを以て村内に其設なし。