山城
山城は殆ど村の中央に位す。東西三町、南北五町人戸四十、里伝に曰く、天正十八年鉢形城の陥るや、北条氏邦の臣三上山城守逃れて、比企郡日影村に赴き、東光寺に於て文禄二年卒せり。其子も山城と云ふ。入間郡に来て亀窪村を拓殖し、其後此地を開墾し、己が名を負せて村名とせりと。故に慶安の頃迄は山城新田と呼べり。天正十八年以後支配地なりしが、寛永十六年川越領となり、次いで采地となる。
八坂神社
南部にあり。勧請年紀不明、傍の瑠璃堂には薬師の尊体を安置せり。
日東村は入間郡の中央に位し、川越町を去る西南一里半、入間川町を去る東北一里余の処にあり、東は大田村に境し、東南福原村に接し、南は堀兼村、西は奥富村に連り、北は入間川を隔てゝ、霞ヶ関村に対せり。地勢南東の一半は高台にして、陸田あり。西北の一半は低地にして、水田多し。赤間川は奥富村より来り、上葛川、下葛川、葛茂川は村内の小池より発し、何れも流れて大田村に入る。西ノ谷池、芝溜池、龍淵、長瀞池、胡桃淵等は其水源の小池也。
土質高台は軽鬆質埴土にして菽麦、甘藷、蔬菜に適し、低地は砂質壌土及粘土質壌土にして、水田ならば稲粱に宜しく、陸畝ならば桑茶、果樹に宜し。又諸所に散じて、礫質壌土あり。然れども其面積極めて些少にして、枸楢等を植えたり。村の大さ東西二十一町、南北十六町あり。川越鉄道は村の東南部を横ぎり、川越入間川街道、之に並行して其西北を走れり。大袋、大袋新田、増形、藤倉、山城の五大字より成り、人口二千六百十一、戸数四百あり。米、麦等の外梨を産すること多し。
日東村地方は後北条氏の頃、大抵開けて、既に村落をなし、其未だ開けざりし処も小田原亡滅後、咸、拓殖せられたるが如し。北条役帳に「新藤下総守三十八貫二百廿九文河越三十三郷大袋」とありて、明に大袋が北条麾下の所領たりしを示し、山城は鉢形城の亡命者三上山城守の子に開かれ、藤倉は大塚の人藤倉大膳に開かれ、増形は天正の頃北条氏直の臣長島民部左衛門の住せし処と伝へられ、大袋新田は慶長の頃、北条氏の遺臣横山次左衛門の開墾と称す。天正十八年徳川氏関東に入りし後は各部落何れも采地、支配地、川越領等交互錯綜変遷し、明治維新に至て、采地支配地は元年知県事、二年品川県、次で韮山県となり、川越領は二年川越藩、四年川越県となり、次で全村入間県(三大区七小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年奥富及柏原新田を合して、山城外六村連合となり、二十二年日東村と称す。
山城は殆ど村の中央に位す。東西三町、南北五町人戸四十、里伝に曰く、天正十八年鉢形城の陥るや、北条氏邦の臣三上山城守逃れて、比企郡日影村に赴き、東光寺に於て文禄二年卒せり。其子も山城と云ふ。入間郡に来て亀窪村を拓殖し、其後此地を開墾し、己が名を負せて村名とせりと。故に慶安の頃迄は山城新田と呼べり。天正十八年以後支配地なりしが、寛永十六年川越領となり、次いで采地となる。
南部にあり。勧請年紀不明、傍の瑠璃堂には薬師の尊体を安置せり。
大袋は山城の北に当り、東西六町、南北四町、戸数百、古は新田の峡下まで入間川流れて、其様袋の如くなりしかば、大袋の名を生じたりといふ。北条役帳に新藤下総守知行を記せるの外風土記に載せたる村民弥兵衛の古文書によれば山田庄河越三十三郷の内大袋とあり。天正十八年川越領となり、宝永元年より支配地となる。
中央にあり。指定村社なり。永禄年中勧請する所なりと云ふ。本社及拝殿あり、傍に稲荷の小社あり。境内老杉多く、四時蓊鬱たり。近時又桜を植たり。又社前に設けたる土俵は有名なり。
曹洞宗多摩郡平井村宝光寺末、孤峯山と号す。開山は明鑑にして永禄十一年正月示寂、当時は本堂、方丈、客殿、山門、禅閨、鐘楼等あり、厳然たる大刹なりしに、再度の火災を経て、(天保三年及明治十五年)僅に山門のみを留むるに過ぎざるに至れり。之を以て明治二十八年二十二世住依元宏菴再興の工を成せりと雖、之を旧観に比すれば劣れると又止むるを得ざる也。山門の傍老松あり。山内閑静也。 (尚堀兼村東三ッ木の条参照)
藤倉は山城の西に連り、戸数四五十、大塚村の人藤倉大膳と云ふもの此地を開発し、此名を負せたりと云ふ。慶安の頃迄は藤倉新田と称せしが、其後藤倉村と云ふに至れり。天正十八年支配地、寛永十六年川越領、宝永元年采地、寛延?三年支配地となり、後再び采地となり、天明以後復川越領となる。
村の中央にあり。勧請年代不明也。伝説によれば、古は尊体の首に錦の巻物を懸けたれど、今より百年前、之を竊取せりと云ふ。巻物の中、事蹟を記せしや。境内小丘の上に愛宕社あり。其傍に稲荷社あり。又内田真水翁寿碣碑あり。老槻古樅三五本、神威の霊なるを覚ゆ。近年又植ふるに梅樹を以てせり。
増形は藤倉の西北に連り、天正の頃より既に増形村と称せり。天正十八年徳川氏に帰し、寛永十六年川越領、延享三年田安氏の領、天保三年采地となり、多くの人に知行せられしが弘化三年川越領となる。
東部にあり。指定村社なり。明暦三年五月の勧請にして、本社及拝殿あり。庭前の楓樹及大公孫樹、秋冬の際異彩を放つ。
曹洞宗大袋村東陽寺末、増輝山と号す。昔は草庵にて休庵と云ふもの世塵を避けて爰に幽居し、康永三年八月十三日寂し、大雲寅徼と云ふもの開山し、元和元年に寂す。本尊正観音、其胸中に行基作六寸許の正観音を秘胎すと云へど、見るもの失明すべしとの伝説あり。本堂、禅室、客舎、鐘堂等あれど、曽て火災にかゝり、旧観を保つ能はず。
其祖長島民部左衡門信興に関する伝説によれば享徳元年甲府に生れ壮なるに及で、武田家に事へ、天正年中武田家亡び流浪し、由緒ありて勢州長島に住み、長島伊勢守と改め、北条氏直に召され、事へて、朱印感状を賜りたり。 後氏直、川越城入の時、供奉し、住宅を増形村に構へ、此処に住せり。 天正十七年没す。(年六十二)と長島氏の現主を酉太郎と云ふ。 其母の秘蔵せる古文書は北条氏の御触書にして、風土記にも引用せり。
大袋新田は山城の東にあり。東西十七八町、南北四五町、慶長年間北条氏の遺臣横山次左衛門の開墾にして、始大袋村に属せるを以て大袋新田と云ふ。天正十八年以降代々川越領たり。
今より百年前まで、村の西端に少しく道の蹟を存せしも、其後畑となりて、其蹟を尋ぬるに由なし。
勧請年代不明なり。
字原新田にあり。勧請年代不明。社殿は近年の建築なり。社前桜樹あり。社後喬木あり。又小観也。社側に長杉天に冲せり。
曹洞宗、東陽寺末、宝林山と号す。開山鑑応、元和八年寂、明治十二年祝融にかゝり、十四年に至り、廿一世住長谷喚応、再興の功を奏せり。