柏原村

総説

柏原村は郡の中央部に位し、東は入間川を隔てゝ、奥富村に対し、北西南は霞ヶ関高萩水富諸村に連り、東南の一点僅に入間川町に接壌す。村の西北部は高台にして、東南部は低地也。高台には林畑多く、低地は水田に富めり。土質も壌士及軽鬆土相半し、高低二地に応じて其区割をなせり。入間川より引ける用水は水富村より入りて東北に流れ、村の西北部の小池より発する一小流も東北に向ひて、共に霞ヶ関村に入る。入間川町より毛呂村に趣く街道は村内を貫けり。米、麦、製茶、織物等の産あり柿は名産也。人口二千二百六十六、戸数三百九十二。此村大字の別なし。直し郡内小村の一也。

村の沿革

村の中央高低両地の境界線たる断崖の南に一流あり、其流に当て、往々溜池を存す。思ふに是れ曽て入間川の古道たりし也。伝へ言ふ昔入間川に洪水あり、崖下の地一帯流水の濆域となりしかば、其辺に住せる人々何れも高台の地に居を移し、其跡一たび陸田となりしが、其後河流遠く南方を流るゝに至れるを以て、民居漸く旧に復し、之を下宿と称し、本村の地とす。而してその高台の地に残れるものを上宿と云ふ。鎌倉及南北朝の時代には鎌倉街道の要地に当り、水富村の境に当て所謂霞ヶ関の趾あり。今も村内に信濃道及奥州道と称する古道の跡あり。文治五年七月源頼朝の奥州征伐に当つて畠山重忠の従軍に柏原太郎なるものあり。降て小田原役帳には柏原四十五貫文師岡山城守及二十二貫四百八十四文柏原石上寄子石上弥太郎と見ゆ、天正十九年五月に行はれたる検地帳は市川宮内、小畠藤五郎、小味山又七等此地を知行したりしことを伝ふ。何れも北条氏の家臣にて天正年代此辺を支配せしと覚し。

徳川氏関東に入るに及び、天正十八年村の一部は川越領となり、一部は采地となりしが、元禄十二年に至て全村川越領となる。松平大和守前橋に移るに及にび前橋領となる。別に延享元年に開墾せられたる北方の新田地は支配地となれり。明治元年支配地は知県事に隸し、二年品川県となり、韮山県となり、前橋領は二年前橋藩となり、四年前橋県と改め、次で韮山県と共に全村入間県(四大区二小区)に属し、六年熊谷県となり、九年埼玉県に属し、十二年入間高麗郡役所を頂く。十七年笠幡村連合。二十二年一たび霞ヶ関村に入りしにや。後独立の自治体となる。

字の名称

柏原村に大字なく、唯小字を設く。明治九年頃旧慣に基て定めし所と覚し。

上河内、南本宿、森ノ上、富土塚、円光寺窪、笹窪、大原、稲荷山、前山、半貫山、金井林、鶴田、高根、上双木、鳥之上、中本宿、北本宿、小山上、下双木、町久保、英、上宿、上沢、半貫、通凹、萩原、元水窪、水久保、丸山、下田、宮原、城の越、御所の内、牛ヶ山、恵花前、早道揚、西宿田、宿田蹟、東宿田、稲荷、川原、石原、砂間、下宿田、下川原、前下河内、後下河内、宮の越、宮林、字尻。

古蹟

霞ヶ関趾

水富村との境界線に当り、低地より高台に登る坂上にあり。付近に大なる榎あり。村内に存する俗称黒米屋及白米屋の先祖は関に近く旅宿を開 業したりしものと言ひ伝へらる。

春立つや霞ヶ関を今朝越えてさても出てけん武蔵野の原。

いたづらに名をのみとめて東路の霞の関も春ぞ暮ゆく。

砦蹟(その1)

村の東方城の越にあり。東南は入間川流域の低地に臨み、西北は高台の陸田地に接続せり。入間川は中古崖下を流れしと覚しく、崖上高一丈有余の塁を廻らし、其中方二十間ばかりあり。別に西に続ける一廓あり。或は以前此両廓を包める外廓もありしや否や。砦跡の位置及構造頗る柳瀬村城の北条氏城蹟に似て、唯稍々小なるものあり。次に記する砦跡と並て明応年中上杉憲政が拠りし処にや。或は其後天文年間両上杉氏が拠りて、北条氏康の川越に赴くを支へんとしたる処などにや。此地今は林莽悽惨、蝉声鳴咽、愴然悲古の情あり。但崖上の風景稍々雄大、訪ふものをして、流石に好地形を占めたるに首肯せしひ。

砦蹟(その2)

前の砦蹟の東南、同じく高台の上、毛呂街道に沿ひて、一丘あり。丘上に近来鐘楼を設く、楼は丘下の永代寺所属のものを移せるなりと云ふ。丘の付近は今皆開拓して、畑となりし、御所の内の地名尚存して、口碑に明に砦跡なるを伝へたり。新撰和漢合図に明応五年五月足利政氏柏原に陣せしと見えたり。(同書明応四年政氏高倉(鶴島村)に陣す)蓋し政氏の此地に陣せしは相模地方より来て、川越を授けんとしたるものを遮断せんためなるべし。

古塚数ヶ所

御所内の付近及其北方二三の古塚を見る。何れも小也。或は既に其根跡を失へるもありと云ふ。

古碑

字御所の内畑中より出てたる板碑七八基一民家の裏に造られたり。元□元年七月十□日、広安元年九月一日行年丶丶丶丶、貞治二二年四月□日、永享丶丶丶(二基あり)、妙心禅尼(年号不明)等の文字見ゆ、又此地に近き、神官墓地中に立てる板碑は「永仁五丶丶と刻せる上へ、新に元禄七安亞道心法印刄正徳丶丶と記し、又永和□九月四日と刻せる上へ、新に□永及延享の年代に属する二 個の戒名を記す。再刻の形蹟歴たり。此板碑恐らくは御所内付近に出てしもの ならん。又字英(はなぶさ)に於て、一人家の側面、竹林中、猿を刻せる一板碑あり。土俗之を八幡様と称し、信仰措かずといふ。

社寺

白髭神社

北本宿にあり、村役場及小学校に隣す。村社にして、村の総鎮たり。猿田彦命を祭る。明徳四年半貫内膳なるもの村民に謀て、之を再建せりと云ふ。社後に周囲二丈五尺に近き大欅あり。最近に至り村内の諸社は殆ど凡て此処に合祀せり。其主なるもの左の左し。

八坂神社

北本宿にあり。応永二年の再建、社地に二丈四五尺の老欅あり。

日枝神社

半貫にあり。応永元年の創建。

高根神社

高根にあり。寛永年中の再建。

稲荷社

北本宿にあり。小学校の北隅。

鷲宮稲荷社

城の越にあり。城中の鎮護なりしと伝ふ。

永代寺

御所之内にあり。真言宗新義派、大智寺末也。応永中再建し、弘化四年焼失す、今は仮堂を存す。墓地に「□□三年」、「永和四年」、「明徳二年」(此碑は砦跡より出てたり)の板碑あり。鐘楼は十年以前、砦跡の丘上に移したり。宝暦年代の鐘を掲く。

円光寺

中本宿にあり。宗派及本末永代寺に同じ。元亀年中の再建と称す。

常楽寺

宮原にあり。天台宗行人派、東京音羽普門院の末也。其本尊大日如来は天文年中まで増田氏に伝はり其持仏なりしが、同九年高麗、多東等三郡の行人に計りて、増田正重が開基する所、寛永十四年より三郡の錫杖頭たり。寺の東に接して墓地あり。

長源寺

宮原にあり、常楽寺の稍々東北地方に位し、曹洞宗直竹村長広寺末也。慶長中底庵桂徹和尚創立せりと云ふ。寺の西に墓地あり。

西浄寺

中本宿にありて、円光寺の北方に位す。真言宗律派東京湯鳥霊雲寺末也。寛保二年高健比丘和尚の再建にして、其以前は常楽寺末、天台宗行人派なりしと云ふ。寛延元年徳川右衛門督宗武の寄附せし石の宝筐塔一個あり。又八代将軍寄附にて四派の幟一個、又長髪あり。井伊掃部頭息女の寄附と号す。寺に大黒天を安置し、甲子の日甚だ雑沓せり。然れども近来稍々衰頽の色あり。

福乗寺跡

永代寺の西方にあり。

小山坊

俗宗に還れり。元修験也。

剣明神社

長谷川氏の氏神にて、其屋敷内にあり。元古鏡を以て神体とせしも、今は木製にて之に模したり。

神明社

増田氏の氏神にして、神明に金山彦を配祀す。社は久しく荒廃に委せしも、近年修繕せり。社後の大槻周囲二丈三四尺あり。

金見塚

宮原の北方水田と山林の間に位し、此塚の辺より鉄糞出づと云ふ。即ち増田氏の東北に当れり。