富士山
富士山は上直竹にあり。山麓に飛瀑あり。山上の眺望可也。古上直竹より石灰を出せり。風土記に曰く、「里正伴次郎村民庄次郎二人の者石灰を製す。長は世に所謂る八王子石灰の根源なり。相伝ふ。二人の先祖天正中八王子の城主北条氏の家臣なりしが、彼城没落後、当村に引籠り、始て石灰を製せしが、慶長中江戸城造営の時、石灰御用を務めしより、以来今も替らず。此石灰を製するもの十二人の株となりて、其七人は多摩郡成木村にあり。三人は同郡小曽木村にあり。二人は即此村にあり」と。
上直竹は村の西部に位し、文政以後何れの頃よりか上分と下分とに分れたり。上分の戸数三十四、下分六十八、下直竹は村の中央部を占め、戸数約一百。
富士山は上直竹にあり。山麓に飛瀑あり。山上の眺望可也。古上直竹より石灰を出せり。風土記に曰く、「里正伴次郎村民庄次郎二人の者石灰を製す。長は世に所謂る八王子石灰の根源なり。相伝ふ。二人の先祖天正中八王子の城主北条氏の家臣なりしが、彼城没落後、当村に引籠り、始て石灰を製せしが、慶長中江戸城造営の時、石灰御用を務めしより、以来今も替らず。此石灰を製するもの十二人の株となりて、其七人は多摩郡成木村にあり。三人は同郡小曽木村にあり。二人は即此村にあり」と。
下直竹字堂山にあり、村社なり。末社に春日、須加、八幡、白山、大巳貴、狗神社、稲荷、熊野の八社あり。四十五年五月下直竹村社吾妻大神及其境内白山社、山神社、大字刈生村社、秋葉社、大字下直竹字太平無格社山神社、字中倉無格社愛宕大神、大字中橋場無格社厳島社、東橋場無格社稲荷を八坂に合祀し社号を南高麗社と改称す。
上直竹下分字瀧にあり、宝物は鰐口三個、何れも鋼鉄にて円形なり一は寛正四年十二月七日吉田邸奉納一は寛永十九年壬午五月柏原村神田与市右衛門納一は正保三年十月武州杣保内間野村木崎弥右衛門納、鰐口にても旧社たるを知る、奉仕せし修験東光院南仙寺に古文書あり。
去月七日猿馬場於合取御辺之稼無比類侯然者黒田金沢討死之儀者不及是非候彼者其跡式不相立侯条家中之皆共貴殿人敷之内へ被加引勵忠功様何辺にも其地の儀可然様御辺頼入侯意之上以猶可勧賞之条弥可被抽軍切侯恐々謹言
永正二
十月六日
為景花押
高梨播磨守殿
(以上書状杉原紙二ッ折表裏十四行)
四十年五月大字上直竹下分字三ッ久保の愛宕、同下間野の稲荷、同同琴平、同宮ノ脇、神明、同郷戸の御中主神、同上川崎山祗社、同台の入稲荷を合社す、四十一年指定村社。
上直竹上分字竹ノ平、明治七年戊午創立、僧本室鳳根勧請す、社地に一根二株の老杉あり、囲甲一丈五尺五寸、乙は六尺五寸、旧山神と云ふ維新のとき改む、四十年五月上直竹上分愛宕前の愛宕社及び其境内の稲荷社を合す。
下直竹字西橋場、曹洞通幼能仁寺末、貞治五年僧通海良義開創、末寺秩父及南多摩に十五寺あり。寛永の鐘銘を延享に鋳直す。寛永年間岡部小右衛門尉忠正殿堂門廊を重修す、廷宝六年能仁寺と争論あり。天和元年十二月遂に其末寺となる。
上直竹下分字下間野、真言新義派、安楽寺末、明治四年正月三日池魚の災にかゝる、元祖法師賢空寛永十八年九月二十日寂す。