南高麗村
総説
現状
南高麗村は郡の西南隅に位し、北は原市場村、飯能町に、東は加治村に、南は東京府西多摩郡成木村、小木曽村、霞村の地に接す。村域東西に甚だ長く、南北狭し。飯能青梅街道村内を通ず。岩淵、上下畑、上直竹上下分、下直竹、苅生の六大字より成り、戸数四百十五、人口二千七百九十一。
村の西南北は秩父山の余脈にて囲まるゝを以て土地の高低甚しく平坦なる所は稀也。西部は高くして一千尺以上に及ぶあり、東するに従ひ漸く低く三百三十尺を最低とす。北境山脈は岩淵の東北にて減じ支派多し、愛宕山、富士山、大高野、柏木山等を主なる山とす。南境山脈は下直竹の東南に滅す。南北限山脈共に交通を妨ぐること大にして北山は山王、赤根二峠にて北に通ぜしも、四十二年下畑より飯能に新道成り、四十余間の隧道を以て急坂を除きしにより、荷馬車往来すべく面目を改めたり。南山は山高くして北山よりも交通を妨げと、山脈短き故村民は大なる不便を感せず。別に小曽木より来り岩淵の南部をなして加治村に入る一脈あり。本村と霞村との境をなす、丘岡重畳すれど前二者の如く険ならず。又高峯なし、唯秋葉山稍々高し、七国峠あり。
地質は全村秩父古生層にて至る所角岩露出せり、下直竹以東に比較的新しき水成岩出現す、恐らくは中生紀層に属せん。上直竹の一部には石灰岩を見る、耕地は山麓渓間に存し北山脈の中に多し、然れども岩淵の一部を除く外は皆渓流に向て傾斜せるを以て水田たるべき地少し。
土質は一様ならざるも全部原生土にて壌土埴土等に礫石を混せり。岡丘若くは水流の作用を受くることなき地には火山灰土を存ず。方言之を、アカボックと云ふ。下直竹以東に見る多し。
川には直竹川あり、川崎川と云ふ小流を合し、又苅生川を受け遂に成木川に合す。
成木川は源を西多摩郡成木の常盤山に発し、成木村を流るゝ五里余にして本村の南境に至り、岩淵に於て山に迫り為に岩井堂の奇景を作れり。
木村の産多し。
沿革
南高麗の地方は丘山重畳して、自ら郡内の別天地を為し、殊に必ずしも交通上の径路たるにあらず。其開発の如きも東吾野、原市場等の地方に比して或は少しく遅れしならんか。
太平記に新田義貞の従士畑六郎左衛門時能は武蔵国の住人なりと見えたり。或は時能及其子六郎時速等は南高麗村畑の地方に住せしにや。然れども旧跡及後裔の如きものあるを聞かず。
里伝によれば此辺元弘建武の頃より大抵加治左衛門泰家の領にして、加治氏累世に及びしが、永禄の頃北条氏照の所轄となり、加治左馬之助其麾下として此辺一帯を支配せしものゝ如く、天正十八年小田原落城の後、支配地どなり、延享元年徳川刑部卿宗尹(一橋)の領する処たり。七伝して慶喜に至り、慶應二年茂徳之を領す。但直竹は采地也。明治元年知県事所轄及一橋領、二年品川県及岩畠県、次て全村韮山県となり、四年入間県(四大区八小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄(高麗郡)十七年上直竹上下分、下直竹苅生、上下畑岩淵七村連合となり、二十二年一村の制を立つるに際し冠すべき名称に困しみ、或は直畑村とせんとの説もありしが、高麗郡の南部に位する故南高麗村と名けたり。
岩淵は村の東端に位し、成木川に瀕せり。川の南岸盤岩の中腹に堂あり。岩井堂と云ふ。盤岩高さ五六丈、其下深淵也。村名は之より起りしならん。戸数八十。
入山にあり、創立年月不詳、元歓喜寺別当たり。明治四十年八月字岩井堂の無格社秋葉社を合祀す。秋葉は天明四年三月の創立也。
甲三ッ沢にあり、曹洞通幼涙、西多摩郡根ヶ布村小本寺天寧寺末、永正年間尼妙円と云ふもの村内に一の草廬を結び道を修すること十余年、後一宇の草舍を営み岩淵山妙円寺と称し、僧松岩を延て始祖とす、後天寧十四世了宝芸達を勧請し開山とす。
岸高山福寿院と号す。中村にあり、慶安二年已丑八月二十四日字光八幡社領七石附与の受領状に歓喜寺六代法印僧真仮名頼音房と見ゆ、当時已に六代なりしを知る、八幡社領は明治四年上地せり。
字岩井堂にあり、真言新義派、歓喜寺に属す。口碑に村民岩崎氏祖先の縁者権大僧都法印大久院の創立なりと云ふ、地は成木川の深淵に枕せし南岸の一大岩石の半腹にして村名の起る所、頗る絶勝の地なり。
中村にあり。岩淵茂左衛門妻基墓及岩淵政輝の墓と称す。共に八坪許の塚にして、上に板碑を存せりと云ふ。
上畑は村の中央より稍々東部に編し、下畑は上畑の東に接せり。戸数上畑三十七、下畑五十六。
下畑字渡戸曽根にあり。誉田別尊、大国主命、素盞鳴尊を祭る。誉田別は即元の八幡社にして金蓮寺内鎮坐、里伝に昔上畑村民宮倉氏の祖鎌倉八幡を勧請せりと。大国主は元金毘羅大権現と云ひ、素盞鳴は元牛頭天王と云ひ共に心王院境内鎮坐也。維新の時八幡宮を八幡大神と改金毘羅大権現及牛頭天王を琴平大神八坂社と改現地に遷し先には八坂を村社とし自余の二社を合殿とせり。然るに八幡は本村にて旧社たる故明治十七年六月八幡及琴平八坂両社を合殿し地名により下畑社と改め村社とす。四十年入沢なる無格秋葉社、上畑字秋葉山の村社秋葉社及愛宕社、上畑字中畑の無格神明社、字中峯の無格稲荷社字御側稲荷、以上の六を合祀す。而して四十年十二月下畑社を改めて畑神社となす。
下畑字宮倉にあり、時宗当麻派(鎌倉郡当麻村無量光寺末)中段中将文安元年壬辰八月創立中殿は村民宮倉氏の祖先なり一遍智真をひいて開基とす。本山無量光寺歴代年譜及西多摩郡檜原村神官土屋達之助所蔵永禄年間北条氏輝下知状には宮倉金遠寺とあり。
下畑字渡辺直土にあり、真言新義派(成木村安王寺末)天正年間吉沢内蔵助開基、元一宇の草堂ありしに天正中安楽三世澄海退老す、村民吉沢氏の祖、内蔵助某亡父関谷隼人助夫妻の為め草堂を修営し一の梵刹とす。
下畑字保入にあり、真言新義派、安楽寺末、里伝には頗る古刹なりと云へと寛政三年十一月池里の災にかゝる。
上畑字岩脇にあり。高麗村聖天院末、多年無住にて旧記を逸す。唯墓地に寛永十九年五月法印良栄と記せる墓碑あり。
苅生は村の北部にあり。戸数三十五。
四方田にあり。曹洞宗通幼派にして下直竹長光寺末、慶長十三年長光寺九世富山慶養の開創也。
上直竹は村の西部に位し、文政以後何れの頃よりか上分と下分とに分れたり。上分の戸数三十四、下分六十八、下直竹は村の中央部を占め、戸数約一百。
富士山は上直竹にあり。山麓に飛瀑あり。山上の眺望可也。古上直竹より石灰を出せり。風土記に曰く、「里正伴次郎村民庄次郎二人の者石灰を製す。長は世に所謂る八王子石灰の根源なり。相伝ふ。二人の先祖天正中八王子の城主北条氏の家臣なりしが、彼城没落後、当村に引籠り、始て石灰を製せしが、慶長中江戸城造営の時、石灰御用を務めしより、以来今も替らず。此石灰を製するもの十二人の株となりて、其七人は多摩郡成木村にあり。三人は同郡小曽木村にあり。二人は即此村にあり」と。
下直竹字堂山にあり、村社なり。末社に春日、須加、八幡、白山、大巳貴、狗神社、稲荷、熊野の八社あり。四十五年五月下直竹村社吾妻大神及其境内白山社、山神社、大字刈生村社、秋葉社、大字下直竹字太平無格社山神社、字中倉無格社愛宕大神、大字中橋場無格社厳島社、東橋場無格社稲荷を八坂に合祀し社号を南高麗社と改称す。
上直竹下分字瀧にあり、宝物は鰐口三個、何れも鋼鉄にて円形なり一は寛正四年十二月七日吉田邸奉納一は寛永十九年壬午五月柏原村神田与市右衛門納一は正保三年十月武州杣保内間野村木崎弥右衛門納、鰐口にても旧社たるを知る、奉仕せし修験東光院南仙寺に古文書あり。
去月七日猿馬場於合取御辺之稼無比類侯然者黒田金沢討死之儀者不及是非候彼者其跡式不相立侯条家中之皆共貴殿人敷之内へ被加引勵忠功様何辺にも其地の儀可然様御辺頼入侯意之上以猶可勧賞之条弥可被抽軍切侯恐々謹言
永正二
十月六日
為景花押
高梨播磨守殿
(以上書状杉原紙二ッ折表裏十四行)
四十年五月大字上直竹下分字三ッ久保の愛宕、同下間野の稲荷、同同琴平、同宮ノ脇、神明、同郷戸の御中主神、同上川崎山祗社、同台の入稲荷を合社す、四十一年指定村社。
上直竹上分字竹ノ平、明治七年戊午創立、僧本室鳳根勧請す、社地に一根二株の老杉あり、囲甲一丈五尺五寸、乙は六尺五寸、旧山神と云ふ維新のとき改む、四十年五月上直竹上分愛宕前の愛宕社及び其境内の稲荷社を合す。
下直竹字西橋場、曹洞通幼能仁寺末、貞治五年僧通海良義開創、末寺秩父及南多摩に十五寺あり。寛永の鐘銘を延享に鋳直す。寛永年間岡部小右衛門尉忠正殿堂門廊を重修す、廷宝六年能仁寺と争論あり。天和元年十二月遂に其末寺となる。
下直竹字西橋場、長光寺に属す。
下直竹字猿淵、長光寺末、享徳元年独堂存賢開山、旧無底派天和元年長光寺と共に通幼派となる。独堂は長光寺三世なり。
上直竹下分字下間野、真言新義派、安楽寺末、明治四年正月三日池魚の災にかゝる、元祖法師賢空寛永十八年九月二十日寂す。
上直竹下分字堂ノ入、通幼派、村内徳蔵寺に属す。
上直竹上分字黒指、通幼派長光寺末、明応元年本堂鳳根の開山、天和中長光と共に転派す。