水富村

総説

現状

水富村は郡の中央に位する一村にして、東は入間川を隔てゝ、入間川町と隣し、北は柏原高萩二村、西は精明元加治二村、南は入間川を以て豊岡町東金子村に対す。飯能町を去る二里、川越町を去る四里也。

地勢村の西北部は高台にして、東南入間川に沿へる地方は低地也。然も其何れも西より東に向て降下の勢あり。入間川は村の南及東を囲繞し、河床高くして、地盤比較的低きが故に堤防を設け、又水流の利用盛に行はる。水富村の名偶然にあらざる也。土質の如きも概して砂質壌土にして頗る肥えたり、其田は郡内第一等に居ると云ふ。川に接せる処にありては礫の稍々大なるものありと雖、是れ河床の変化、洪水の結果に外ならず。水田は甚だ浅く、溝に泥土少し。畑地の如きも砂礫を混じ、八九寸乃至一尺にして礫の層に達す。入間川飯能街道、豊岡高萩坂戸街道は村の中央に於て交叉し別に豊岡より飯能に至る街道は村の西南に於て入間川飯能街道に合せり。米、麦、繭の産多く、別に斜子、木綿織物、醤油砂利、川魚(鮎)等を出す。上下広瀬根岸笹井の四大字より成り、人口三千三百三十三、戸数五百十六。

沿革

広瀬の名は古く存して、入間郡に属せしものゝ如く、広瀬神社は景行天皇の御宇大和国広瀬郡広瀬神社を遷せしものなりとの伝説あれば村名は其頃に始まりしものとすベく、和名抄には広瀬郷、入間郡の中に出て、延喜式には広瀬神社を入間郡に出し、文徳実録には嘉祥三年六月己酉武蔵国広瀬神社を官社に列したることを記せり。以て土地の古くして、且入間郡に属せしを知るベし。法恩寺年譜録には又春原庄広瀬郷と記し、屡記事あり。中古に於ける名称ならん。

笹井は古篠井又は佐西等と記せしが如し。廻国雑記に、佐西の観音寺などゝ記せり。北条役帳には、高麗郡篠井三田弾正少弼と載せたり。根岸は古根本村と称せしとやら。其開けしは八王子、日光街道始りて後の事なるベく、当時には其一小宿駅として繁昌せしものなるに似たり。

広瀬郷の一部は鎌倉時代既に越生氏に属せし飛地なるが如く鎌倉街道は村の東北端を通過し、元弘正平の諸役には戦塵往々村内に及びしなるベし。義貞の陣所と称するものも村内にあり。其後明ならずと雖、里伝によれば長禄以来加治領霞郷と称へしとの説もあり、天正年中加治左馬助丹治家信の領となりしとの説もあり。永禄の頃笹井が三田弾正弼に知行せられしは云ふまでもなし。天正十八年小田原亡滅するや、采地あり川越領あり、川越領は維新前には前橋領となる。故に明治元年知県事所轄地及前橋領あり。二年品川県及前橋藩あり。品川県は同年韮山県となり、前橋藩は四年前橋県となり、同村全村入間県(四大区三小区)となる。六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄高麗郡、十七年根岸及三村連合となる、二十二年水富村を成し、二十九年入間郡に属す。

上下広瀬

上広瀬及下広瀬は、村の東半部を占め、上広瀬は西に、下広瀬は東に相並べり。

広瀬神社

上広瀬の中央、県道の傍にあり。上下両村の鎮守にして、県社也。文政六年火災に遭ひ、宝物古記を焼失せりと雖、古老の口碑に日本武尊東征の際、此地の大和国広瀬の地と似たるを以て社殿を設け給へりと伝へ、式内社にして嘉祥三年官社に列せられしことは古史に明也。今の社殿は四十二年の落成にして、境内に旧社殿をも存す。老木数章、境内広濶、末社に八幡稲荷神明あり。又物産碑あり。埼玉県令白根多助翁の詠める歌を記せり

なゝこれり広瀬の浪はあやなりを堂川越の名に詠しけん

社は従来白髭明神と称せられき。

禅龍寺

曹洞宗永平寺末にして、万寿山と号す。万寿年間の設立にして、開基は玉岫?(りん・玉編に米と舛)公和向なりと云ふ。山号によりて年代を附会せし也。又、往古尼寺たり、鎌倉全盛の頃は千石を領し、松ヶ岡の尼寺は当山より移せしものなりと云ふ。然るに鐘銘によれば、明応年間玉岫?公尼和尚初開基於斯、乃天正元癸酉年萱尻而瑞泉五技華厳文説和尚為転法輪之道場也云々とあり。従ふべきに似たり。文説は中興開山也。境内南方に観音の堂あり。

信立寺

惺桜山と号し、日蓮宗也。広瀬神社の東北一町ばかりに当り、開山日惺慶長三年寂す。開基は加治佐馬助家信同十七年卒す。番神堂あり、鐘楼あり。

西光寺

宝蔵寺

地蔵堂

霞か関址

上広瀬の東北にあり、柏原村と接せり。北は一面の高台にして、南は低地、其断崖高さ五六丈、往古越後、信濃地方より鎌倉に通ずる要所に当り、関守の跡あり。

果して霞関なるやを知らず。

根岸

根岸は、村の中央に位し、幕末の頃までは日光街道に沿ひ、南北に連れる宿駅なりしも、今は飯能街道に沿ひて東西に連る邑居たらんとするの勢あり。

白髭神社

明治十三年拝殿を改築し、社務所を新築し、社務所は平素青年の集会所たり。社地小学校と連れり。

明光寺

新義真言宗山城国宇治郡醍醐山無量寿院末にして、高竹山と号す。開山明光明応七年寂す。其後永禄十三年三月高野山金剛峯寺の僧覚円来住す。之を中興とす。延宝以前は古義真言に属せしも、以後新義派となる。閑雅なる一寺也。

笹井

笹井は、村の西部を占めたり。村の中央に清水湧出する井あり。村民之を愛せしかば村名となると伝ふ。その泉尚存す。

白髭神社

村の中央にあり。社務所は青年の会場にして且撃剣場たり。末社に愛宕明神、鹿島社あり。境内稍々広し。

宗源寺

曹洞宗総持寺末、今井山と号す。往古は宗源庵と呼べる草庵也。弘法大師作地蔵尊あり。文禄元年入間郡龍ヶ谷龍穏寺十六世鶴峯萱居す。当時徳川家臣土屋治郎左衛門昌吉の堂閣を興造する処也。其釜今尚存す。寛永二年仏工篠田佐兵衛尉定政、歯仏釈迦を負ひ来り、四世頽世の望にりり寄付し、之を本尊とす。

薬王寺

薬師堂

観音堂

古来有名なる笹井観音堂は明治の初一たび廃滅に帰せしが、近時再び其跡に小堂を建てたり。旧観音堂別当瀧音山泊山寺梅の坊は本山派修験にして聖護院末、所謂日本二十八先達の一也。廻国雑記に、佐西の観音寺といへる山伏の坊に至りて、四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠し侍る中に

南帰北去一李闌 露宿風?(そん)綱不安 贏得行乗?(くちへんにかね)詩景 干峯万壑雪団々

と。又其東北に新田義貞の陣地と称するものあり。或は当時一派の部隊が宿営せしにや。寺は大同二年の創立と称し、北条氏照の文書其外大刀鎗宗旨関係の文書を存す。堂を廃して帰農し、明治二十二年、火災に罹りしも尚此を失はざりしは幸と云ふべし。