仏子

仏子の沿革

仏子は古、武士と記せりと称す、其説、詳ならざれど、仏子を読で今もブシと呼べり、其開発の始め民家僅に四軒あり、大久保、平岡、石井、宮岡の四姓是也。其子孫今も存す、古は村内を四分して各其一を有ちしといふ、宮岡氏屋敷たりし処は今は他姓之に住すと雖、周囲に土手を繞らし、其傍に大板碑二基あり、建長二年七月二十九日及文永五年□□十二月と記す、其下に至徳と刻せる小板碑あり、風土記には四軒各大板碑ありと記し、又村の西端にも今尚大板碑あり、又高正寺門前にも大板碑あり(建長八年七月十二日と記す)其後降て天正、慶長の頃には民家十五軒となり、文化の頃には八十戸となり、今は漸く百三四十に近し(今も前掲四姓の家多数を占め其他は桑原浅見石塚長岡等若干あるのみ)管轄は天正十八年代官の支配地となり、慶長三年六月検地あり、其頃は貢税を多摩郡青梅村陣屋に納めしと云ふ。宝永四年以来采地となりしが、明治元年武蔵知県事の管轄となり、二年品川県、韮山県を経て、四年正月高正寺領も韮山県に合し、同十一月全村入間県(三大区四小区)となる、明治十七年岩沢連合に加はり、二十二年元加治村となる、柿は此地の名産なり。

社寺

八坂神社

字霞沢に在り、村社にして、明治四十年、字霞沢の村社八坂神社、字西方欠下の白髭神社、字中島の家忠神社、金子坂の諏訪神社、字上広瀬の第六天社の五社を合祀せり。

高正寺

村の中央部に位し、曹洞宗金子村瑞泉院の末にして、諏訪山万齡(?)院と号す、建保年間、村上党の金子六郎家範、同十郎家忠の弟余一親範の創立也、始万齡院と称し、密宗の道場なりしが、大永の頃、親範の遺族、万齡院の旧跡を再興し、瑞泉院二世菊陰瑞潭禅師を以て中興となす、依て曹洞に入る、寺に金子氏の系図あり、墓地に「秋翁山公和尚宝徳二二年」及「観応二年」と刻せらる大板碑あり、寺は元現境内の東南広町と称する所より移せるものにして、恰も大永元年中興の際に当ると云ふ。大永二年十二世高岸和尚、開山二百五十回忌を以て山門鐘楼を造る。今存する所のもの是也、楼上に宝暦十年の鐘を掲げたり、宝蔵衆寮等は、維新の際取去りたりと雖、本堂清浄、楼門奇古、境内の風致甚だ佳也。小池あり、厳島祠を祭る、後方の丘上眺望頗る宜し。

金子氏に関する古蹟

金子坂は字広町より丘陵を越えて、金子村に出てんとする処に在あり、古よりの名称也、坂より燧石を出せりと伝ふ。御霊神社は高正寺の東北に位し、元御霊塚の上に存して、或は親範を祭れりと云ひ、或は其先妣の墓跡なりとも称す。又中島に家忠神社あり、高正寺七世驚州和尚の時、家忠の武具を埋めて其上に社を立てたりと云ふ、中島の鎮守なりしが今は八坂神社に合せり、御霊社も今はなし、館址は広町にあり、陸田の稍々平坦なる処より南方、丘陵に挟まれたる、渓間にかゝれりと覚しく、丘に近く、稍々土手跡とも覚しきものあり、其辺古瓦を出し、布目あり、或は往々にして金形を存するものあり、親範承久三年五月廿五日逝去の後、其館跡を香華院に当てたりと云ふ。