笠幡

笠幡は村の中央より西部に亘り、東西一里、南北廿六七町、戸数二百七八十。

尾崎神社

古社なれど勧請年暦不明、棟札の文字読むべからず。 但社号に大日本国高麗笠幡大明神と記し、又一の棟札には慶長十二年修理を記し、又一棟札に寛永十三年十二月笠幡郷惣社大明神とあり、同十五年の棟札には笠幡郷惣社尾畸大明神とあり。 其他寛文九年十二月再興元禄二年修理の棟札あり。 之れ現今の社殿也。 尚古来円経六寸表に仏体を凸出せる鋳板に天文二十年鋳造と記せる掛物二面あり。

鏡神社

猿田彦大神を祭る。 勧請年日不明なれど、承応二年七月造営の棟札 あり。 又延宝五年三月二日造立の棟札あり。 元禄四年八月修復の棟札ありて、当処の産土神たれば、明治五年村社に列せらる。

古老の伝説によれば、昔土人あり土地開墾の際鏡面一を掘出したるを以て、之を見れば其裏面に金質朽ち錆びたれどもかすかに猿田の文字見えたり。 依て鏡を神宝とし、社号を鏡宮と称へしが、古鏡は承応造営の時紛失せりと。 今の社殿は慶応二年の造営にて、旧地より移せるもの也。

白髭神社

村社也。 勧請年月不明なれども、万治二年正月造営の棟札あり、其外は紛失せり。 安政二年正月十五日改造す。

古老の伝によれば、享禄の頃は現社地の西南二十間許の地に南面して社殿あり。 其跡今も歴然たりと云ふ。 又其頃神前にかゝれる鰐口に永享三年とあり、又社辺に天文七年と記せる日待供養塔の古碑ありしと云ふ。

延命寺

倉ヶ屋戸口にあり。 仙波中院末、後村上天皇の御宇曹洞宗元二遍公和尚(貞治五年入寂)の創立にして、興学寺と号せり。 後慶長年間宗賢法印天台宗に改めたれば、之を中興開祖とす。 開祖元二の古塔今も存す。 天海は宗賢と法縁あるに由て、直筆の由緒書及延命寺の称号下附ありしが、明和の火災に凡て失へり。 寺は境内幽邃、泉石の趣あり、寺堂も亦整へり。

西山

延命寺に接して、其西方鬱蒼たる森林あり。 延命寺は元其一部にありしと伝へらる。 林叢を分けて、中に進めば土居の跡或は明に、或は隠かに、即ち其東部は寺跡と覚しく、西部は館跡と覚し。 邸鎮守の如き小なる神社もあり、依て少しく何人の住せし所なるやを吟味せしに、寺僧の甚だおぼろなる伝に西山は西山将監の居地なりとの説もあれど、発智氏の祖発智太郎の居地と云ふもありと。 之を発智氏に就て尋ぬれば、西山は祖先以来何故にや甚だ重要なる土地と云ひ伝へられ、猥りに手を附けざる慣習なり。 と。 其系図には西山莊監の名も見えたり。 或は思ふ此地古西山氏住し、然る後に発智氏代りしか。 系図の最初の部分は未だ遽に信用する能はず。 然れども西山最後の居住者は発智氏なると、稍々明かなるが如く、数代若くは十数代以前、此処を去て今の処に移り、専ら帰農拓地の事に従へるものならん。 延命寺は恐らく西山氏などの開基にて、発智氏の如きも力を盡したるものならんか。