勝呂村
総説
現状
勝呂(すぐろ)村は入間郡の最北部に位し、北は越辺川を隔てゝ比企郡に接し、東は郡内三芳野村に連り、南は鶴ヶ島村に境し、西は坂戸町に隣れり。
川越町を去る西北二里、坂戸町を去る東方十五六町、川越高坂街道、桶川坂戸街道は村内に交叉せり。
地勢南部は概して高く、北部は一般に低湿也。
従て南部は陸田多く、北部は水田に富めり。
土質も又二大部に分れ、南部は赤色壌土、赤色埴土多く、東北部は腐植質壌土也。
北部越辺河辺の地は砂土又は純粹の壌土也。
川は越辺河の外、坂戸より来る飯盛川、村内南端より発する一小流あり、越辺川より分れたる用水あり、何れも合して、東三芳野村に入る。
養蚕も行はれ、米、麦、繭糸の産あり、人口三千百七十五、戸数五百三十五、塚越、石井、島田、赤尾の四大字に分る。
沿革
勝呂村古は勝呂郷の地にして勝の一字を以て称せり。
廻国雑記にすくろと云へる所に到りて名にきゝし薄なと尋ねて云々とあり。
其四大字の中、南方の塚越及石井は甚だ古きに似たり。
塚越及石井の付近、古墳甚だ多し。
中に就て「塚の腰」は塚越村の起因となり、石井村の勝呂神社々地の如き亦眥古墳に属す。
次に石井村字堀内付近一帯の畑中より布目ある古瓦を出すこと頗る多く、尚付近の小字には御門あり。
西門前あり、将軍山あり、御殿山あり、此等の小字名は何れの頃より存せるやを明にせざれども、要之此地方恐らくは勝呂氏の館跡なりしならん。
而して村内の古社にして、村上天皇天徳三年に勧請せられたりと称する住吉神社は、或は勝呂氏に関係を有する者なるやも計られず。
勝呂氏は七党児玉党の一派にして、七党系図に兵衛尉家恒の子須黒太郎恒高あり、其子に黒須左衛門頼高あり。
又家恒の二男右馬允直家二子あり、長を直忠と言ひ、其子を行直となす。
次を国家と称す。
又家恒の三男を左衛門尉家時と称し、其子を太郎安家と云ふ。
勝呂氏の一族は始め、今の石井村大老寺坐域に居邸を設けしものの如く、土手堀の跡、尚一部を存し、其西方に鎌倉街道あり、其後或は今の堀内付近に移れりと覚しく、其屋鋪鎮守たりし熊野神社は近年まで村役場西方の地に存したりき。
又塚越村内に小字村馬場あり。
或は住吉神社の宮司たる勝呂氏の如きは其別系にして、遠き以前より宮司職たりしものか。
既にして勝呂の本宗は漸く衰へ豊前守と云ふもの小田原北条に事へしが、北条氏没落の後上総国久留里へ赴き里見家に仕へ、後卒せりと云ふ。
恰も此頃若しくは其以前より塚越村西光寺付近には小島豊後の来るあり、北条役帳によれば伊丹右衛門大夫十九貫百三十二文入西勝之内大官分藤井共卯検地とありて、住吉社は大宮とも称し、又藤井は塚越の小名にあり、豹徳軒四十貫五百文勝之内石井村太田大膳亮四十貫五百匁勝之内石井と見ゆ。
塚越石井は其等の人の知行せし所也。
恰も此頃島田村は松山城主上田能登守朝直、同上野介政広の領する所となり、北条以前には上杉氏の将難波田弾正に属せしものゝ如し。
又赤尾村に関しては梅園村堂山最勝寺什物書写大般若経の末に応永三年赤尾阿弥陀堂住海禅と記されたりと称すれば、此地方も恐らく南北朝時代には開発せられたるものならん。
要之勝呂村の地方石井塚越は勿論、島田赤尾も決して新開の地方にあらざる也。
江戸時代の所轄は甚だ錯綜し、采地あり、支配地あり、川越領あり、元禄以前は采地其多きに居りしも、其後川越領増加し、采地支配地等と互に増減あり。
維新前に至ては石井の一部に古河領あるの外、全村川越領となれり(寺社領を除く)、故に明治二年、川越藩、古河藩となり、四年川越県、古河県となり、次で入間県(五大区一小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年石井村連合、二十二年勝呂村を成す。
塚越は村の南東部を占めたり。
戸数一百戸、村名の起原は、北部路傍の所謂「塚の腰」にありて存す。
川越街道より入り、住吉神社へ至らんとする中間、馬場と称する所の路傍に半崩されたる小古墳あり。
墳上一小石塔を立てり。
之を塚の越と名くと云ふ。
其東人家の竹林中等に尚一二の古塚を見る。
字御門にあり。
村社也。
伝ふる所によれば天徳三年の創立にして康平年間源義家此地に陣せりと云ふ。
治承四年千葉介常胤此社に参拝し、文治三年鎌倉幕府より北武十二郡の総社と定められ、勝大宮と称す。
永享元年已酉足剌基氏再興し、住吉神社と改むと云ふ。
疑ふべしと雖古社なること明也。
社の宝物には陣鉦あり、色紙あり、棟札あり、慶長八年江戸幕府より社領六十石の朱印を下賜せられ、明治四年川越県第十区郷社となり、五年村社となる。
社地広濶、老杉古木多く、社殿又壮大也。
社地の東南神泉あり、清水透明、鯉魚の溌溂たるを見る。
池中小島あり。
厳島祠あり。
明治四十一年村内の国府神社(字馬場)、八幡神社(字南八日市)、八坂稲荷両社(字宿西)を境内に移し、旧境内社、和歌宮社、天満社、東照宮、疱瘡社、稲荷社、厳島社、杉本社、八重垣社、総前社(大穴牟遅命、小名彦、奇稲田姫命倉稲田命を祭り元文四年秋元越中守の頃遷坐せり)簸川社、子安社、荒神社、塚越社の十七社と合せり。
塚越社は元義家明神と称し、塚の越の上に設けたる小社也。
住吉神社の旧社掌たる勝呂氏は社の東方に住し、住宅の辺今も少しく構堀の跡を見る、旧家にして吉田家の配下に属し貞和年代より神職を務めたりと伝ふ。
系図及文書若干を蔵す。
勝呂氏中頃高麗氏より人を迎へしやの形跡あり。
今新堀高麗氏に存する高麗系図も一たび此処に持ち来られしものなりと云ふ。
字新田前にあり。
曹洞宗龍ヶ谷龍穏寺末にして、宝福山と号す。
其開山は本寺二十世撫州春道にして正保三年寂す。
従て開創年代は寛永二十年の頃に属す。
然るに先是、西光寺は真言の一寺にして、上杉氏の臣小島豊後なるものゝ開基也。
豊後の子越後と称し、天文十五年以後北条氏に属す。
其現主を小島佐次郎と云ひ、今尚寺の西隣に一家を構えて、先祖の木像を所蔵せり。
寺辺を訪へば土堤の跡若干を存して、小島氏と西光寺との両者を包みしが如し。
寺の境内に薬師堂あり、其薬師の木像は蓋し名作也。
其他郷楼あり、小島氏、勝呂氏、高麗氏等の墓地あり、墓地中に散見する板碑には元徳三年四月十九日と刻せるあり。
貞和四年戊子十月十二日妙西等と刻し、貞春法位寛保二…正月三十日と刻せるものは恐らく後世の重刻に外ならざるべし。
西光寺末光明寺は今廃寺となり、本寺に合せり。
又西光寺の西南構堀と称する所に稍々大なる板碑あり、永和二年と刻せりと云ふ。
構堀に恐らく構堀あらん。
石井は村の中央部に位し、戸数二百に近し、勝呂、元宿、新町、宿、下石井等の諸字に分る。
従来の白山神社にして、字勝呂にあり。
村社也。
寛和二年鎮坐、建保元年須黒太郎恒高再営、寛永十九年再営と伝ふ。
寛永以前の事は未だ断定するに由なき也。
明治四十年、並木(下石井)神明(勝呂)、三社(下石井) 愛宕(新町)、神明(船橋) 稲荷(上宿)鹿島(上宿) 神明(宿内) 六所(鹿島) 厳島(下宿) 熊野(宿内) 神明(新町) 稲荷(新町前) 天神(大智寺後) 稲荷(稲荷前)等の諸社を合祀し、四+一年改めて勝呂神社と称す。
神職岡野氏。
社は二丈許の丘上にあり。
社側に周囲二丈の老杉あり。
樹下に一穴あり。
石棺の石片と覚しきもの露出せり。
蓋し丘は古墳なること疑ふべからず。
丘下華表の付近に長一丈、幅四尺余の一大板石あり。
蓋し付近の古塚に存せし、石棺蓋ならん。
勝呂社の西に井上氏あり。
其庭園中に一丘あり。
元並木神社を祭る。
社は井上式部少輔藤原広利が文禄四年創立せし所と伝へられ、広利は丹後宮津より此地に移れりと云ふ。
天保三年社丘前面の麓に一小穴を生じ、内より金環、管玉、鉄轡等出でしが、明治十八年再び暴雨のために小穴を生じ、古器物、石碑片を得たり。
其等諸品何れも井上氏に蔵せり。
社丘は勿論古墳也。
勝呂社並木社の辺、多くの古墳ありしと覚しく、井上氏庭中の築山は恐らく一個の塚なるべく、其他此辺より金環曲玉を得しものありと云へば、既に崩されたる塚の存せるを知るべし、更に大智寺の付近に至れば、守屋塚など称するもありて、守屋氏の所有、其氏神稲荷社を設けたり、守屋氏は元鎌倉街道辺に住し宿場問屋なりしと云ふ、其他付近に塚甚だ多し。
井上氏の西より村役場の辺に至るまで、畑中より布目瓦を出すこと多し。
土人或は之を過大視して鎮守府の跡とし、屯倉の跡とし、頗る判断に苦しめるが如しと雖、郡内毛呂村、元加治村等の豪族館跡に布目瓦出づるを見なば、決して斯く重大視するの要を見ざる也。
土人此辺を堀内と称し、其地の地名甚だ館跡たるの意味を含めり。
而して地は南に低地を控へ、北方もやがて、水田地に近く、館地として適当なるが如きを覚ゆ。
蓋し勝呂氏の拠地也。
其北方路傍に勝呂氏廼碑と称する小碑を立てり。
堀内にあり。
元亀三年須黒豊前守屋敷鎮守として勧請せし所と云ふ。
宿内にあり、東は堀内に接せり。
寺伝によれば延喜年間の創立にして昆盧山源光庵と称せりと云ふ。
其後康平二年源義家再営、次で須黒太郎恒高再興、観応以後龍穏寺末となる。
開山教覚観応三年寂、中興開山缺心御洲と称すと。
風土記の記す所と差違あり。
思ふに此寺観応文和の頃既に一寺となり、恐らくは勝呂氏の開某ならん。
徳川時代に入りては寛永元年端頭神谷弥五郎の再興なるべしと云ふ。
境内西方愛宕山あり。
明治十八年開墾せしに、輻八尺、長二間の石棺を得たり。
又元応三年と刻せる古碑を得たり。
又南五六十間にして狢山と称する所に大小二丘あり。
此処よりも石棺及金環等を得たりと云ふ。
境内に南無阿弥陀仏造立供養文和三年丙申七月孝子等敬白と記せる八尺許の大板碑あり。
又康平二年(平は永にあらざるか)と記せる小板碑あり。
年代甚だ古し。
元応三年貞治三年等記せるもあり。
勝呂町にあり、智積院末也。
寺伝によれば大同二年日教大僧郡の創立にして、平治元年日海住したりしが、比企能員祖先香華院たるにより祈祷所に当てたりと云ふ。
然るに風土記に稍々趣を異にせり。
曰く。
過去帳に初代日教、二代日海とあれど年月もなし。
中興開山俊誉慶長の頃住職せりと伝ふれども寂年も知れず、中興開基は黒川丹波守平正直にて、延宝八年に卒すと。
思ふに此寺中興せしまでは微々たりしならん云々。
思ふに此寺地は勝呂氏の祖先居住の処にて、其後堀内に移りしなるべし。
境内の様如何にも古蹟と思はる。
云々。
と。
風土記の説く所従ふべきに似たり。
境内に今も構堀の跡あり。
寺堂甚だ壮大、殊に山門の屋根大に高し。
鐘楼あり。
境外堂あり。
境内も頗る広濶也。
黒川氏の墓石あり。
又井上菽蔭の墓あり。
其他板碑大小甚だ多し。
寺は真言宗の名寺にして其末寺三十二ありと云ふ。
島田は村の北部にあり、越辺川に臨む。
戸数百二三十。
臨済宗にして、越生正法寺末、天林山と号す。
古は天神坊と称する坊舍なりしと云ふ。
天神社も境内にありき。
東方にありて、一町四方程の地也。
天文の頃難波田弾正の知行せし処なれば、陣屋などのありし処にや。
赤尾は村の東北部に位し、越辺川に瀕せり。
此辺古は沼沢地にや。
今も井を穿りに当て、水草を出すとありと云ふ。
本村にあり。
村社也。
元禄中の再建なりと称すれど、寛延年代洪水のために由緒を失へりと云ふ。
諏訪にあり。
村社也。
村民林半三氏の祖文亀年間此地に移りし時、共に遷したる処なりと云ふ。
雲谷にあり
木村
雲谷
坪ノ内
同(坪ノ内)
合免
塚越
東部、越辺川に近し。
龍隱寺末、古は西方堂屋敷の地にありしを鉄心と云ふ僧今の処に移せりと云ふ。
鉄心寛文四年寂す。
境内に天神社ありき。
村民之を三芳野神社と称したりと云ふ。
大智寺末、