塚
川越街道より入り、住吉神社へ至らんとする中間、馬場と称する所の路傍に半崩されたる小古墳あり。 墳上一小石塔を立てり。 之を塚の越と名くと云ふ。 其東人家の竹林中等に尚一二の古塚を見る。
塚越は村の南東部を占めたり。 戸数一百戸、村名の起原は、北部路傍の所謂「塚の腰」にありて存す。
川越街道より入り、住吉神社へ至らんとする中間、馬場と称する所の路傍に半崩されたる小古墳あり。 墳上一小石塔を立てり。 之を塚の越と名くと云ふ。 其東人家の竹林中等に尚一二の古塚を見る。
字御門にあり。 村社也。 伝ふる所によれば天徳三年の創立にして康平年間源義家此地に陣せりと云ふ。 治承四年千葉介常胤此社に参拝し、文治三年鎌倉幕府より北武十二郡の総社と定められ、勝大宮と称す。 永享元年已酉足剌基氏再興し、住吉神社と改むと云ふ。 疑ふべしと雖古社なること明也。 社の宝物には陣鉦あり、色紙あり、棟札あり、慶長八年江戸幕府より社領六十石の朱印を下賜せられ、明治四年川越県第十区郷社となり、五年村社となる。 社地広濶、老杉古木多く、社殿又壮大也。 社地の東南神泉あり、清水透明、鯉魚の溌溂たるを見る。 池中小島あり。 厳島祠あり。
明治四十一年村内の国府神社(字馬場)、八幡神社(字南八日市)、八坂稲荷両社(字宿西)を境内に移し、旧境内社、和歌宮社、天満社、東照宮、疱瘡社、稲荷社、厳島社、杉本社、八重垣社、総前社(大穴牟遅命、小名彦、奇稲田姫命倉稲田命を祭り元文四年秋元越中守の頃遷坐せり)簸川社、子安社、荒神社、塚越社の十七社と合せり。 塚越社は元義家明神と称し、塚の越の上に設けたる小社也。
住吉神社の旧社掌たる勝呂氏は社の東方に住し、住宅の辺今も少しく構堀の跡を見る、旧家にして吉田家の配下に属し貞和年代より神職を務めたりと伝ふ。
系図及文書若干を蔵す。 勝呂氏中頃高麗氏より人を迎へしやの形跡あり。 今新堀高麗氏に存する高麗系図も一たび此処に持ち来られしものなりと云ふ。
字新田前にあり。 曹洞宗龍ヶ谷龍穏寺末にして、宝福山と号す。 其開山は本寺二十世撫州春道にして正保三年寂す。 従て開創年代は寛永二十年の頃に属す。 然るに先是、西光寺は真言の一寺にして、上杉氏の臣小島豊後なるものゝ開基也。 豊後の子越後と称し、天文十五年以後北条氏に属す。 其現主を小島佐次郎と云ひ、今尚寺の西隣に一家を構えて、先祖の木像を所蔵せり。 寺辺を訪へば土堤の跡若干を存して、小島氏と西光寺との両者を包みしが如し。
寺の境内に薬師堂あり、其薬師の木像は蓋し名作也。 其他郷楼あり、小島氏、勝呂氏、高麗氏等の墓地あり、墓地中に散見する板碑には元徳三年四月十九日と刻せるあり。 貞和四年戊子十月十二日妙西等と刻し、貞春法位寛保二…正月三十日と刻せるものは恐らく後世の重刻に外ならざるべし。
西光寺末光明寺は今廃寺となり、本寺に合せり。 又西光寺の西南構堀と称する所に稍々大なる板碑あり、永和二年と刻せりと云ふ。 構堀に恐らく構堀あらん。