字御門にあり。 村社也。 伝ふる所によれば天徳三年の創立にして康平年間源義家此地に陣せりと云ふ。 治承四年千葉介常胤此社に参拝し、文治三年鎌倉幕府より北武十二郡の総社と定められ、勝大宮と称す。 永享元年已酉足剌基氏再興し、住吉神社と改むと云ふ。 疑ふべしと雖古社なること明也。 社の宝物には陣鉦あり、色紙あり、棟札あり、慶長八年江戸幕府より社領六十石の朱印を下賜せられ、明治四年川越県第十区郷社となり、五年村社となる。 社地広濶、老杉古木多く、社殿又壮大也。 社地の東南神泉あり、清水透明、鯉魚の溌溂たるを見る。 池中小島あり。 厳島祠あり。
明治四十一年村内の国府神社(字馬場)、八幡神社(字南八日市)、八坂稲荷両社(字宿西)を境内に移し、旧境内社、和歌宮社、天満社、東照宮、疱瘡社、稲荷社、厳島社、杉本社、八重垣社、総前社(大穴牟遅命、小名彦、奇稲田姫命倉稲田命を祭り元文四年秋元越中守の頃遷坐せり)簸川社、子安社、荒神社、塚越社の十七社と合せり。 塚越社は元義家明神と称し、塚の越の上に設けたる小社也。
住吉神社の旧社掌たる勝呂氏は社の東方に住し、住宅の辺今も少しく構堀の跡を見る、旧家にして吉田家の配下に属し貞和年代より神職を務めたりと伝ふ。
系図及文書若干を蔵す。 勝呂氏中頃高麗氏より人を迎へしやの形跡あり。 今新堀高麗氏に存する高麗系図も一たび此処に持ち来られしものなりと云ふ。