石井
石井は村の中央部に位し、戸数二百に近し、勝呂、元宿、新町、宿、下石井等の諸字に分る。
従来の白山神社にして、字勝呂にあり。
村社也。
寛和二年鎮坐、建保元年須黒太郎恒高再営、寛永十九年再営と伝ふ。
寛永以前の事は未だ断定するに由なき也。
明治四十年、並木(下石井)神明(勝呂)、三社(下石井) 愛宕(新町)、神明(船橋) 稲荷(上宿)鹿島(上宿) 神明(宿内) 六所(鹿島) 厳島(下宿) 熊野(宿内) 神明(新町) 稲荷(新町前) 天神(大智寺後) 稲荷(稲荷前)等の諸社を合祀し、四+一年改めて勝呂神社と称す。
神職岡野氏。
社は二丈許の丘上にあり。
社側に周囲二丈の老杉あり。
樹下に一穴あり。
石棺の石片と覚しきもの露出せり。
蓋し丘は古墳なること疑ふべからず。
丘下華表の付近に長一丈、幅四尺余の一大板石あり。
蓋し付近の古塚に存せし、石棺蓋ならん。
勝呂社の西に井上氏あり。
其庭園中に一丘あり。
元並木神社を祭る。
社は井上式部少輔藤原広利が文禄四年創立せし所と伝へられ、広利は丹後宮津より此地に移れりと云ふ。
天保三年社丘前面の麓に一小穴を生じ、内より金環、管玉、鉄轡等出でしが、明治十八年再び暴雨のために小穴を生じ、古器物、石碑片を得たり。
其等諸品何れも井上氏に蔵せり。
社丘は勿論古墳也。
勝呂社並木社の辺、多くの古墳ありしと覚しく、井上氏庭中の築山は恐らく一個の塚なるべく、其他此辺より金環曲玉を得しものありと云へば、既に崩されたる塚の存せるを知るべし、更に大智寺の付近に至れば、守屋塚など称するもありて、守屋氏の所有、其氏神稲荷社を設けたり、守屋氏は元鎌倉街道辺に住し宿場問屋なりしと云ふ、其他付近に塚甚だ多し。
井上氏の西より村役場の辺に至るまで、畑中より布目瓦を出すこと多し。
土人或は之を過大視して鎮守府の跡とし、屯倉の跡とし、頗る判断に苦しめるが如しと雖、郡内毛呂村、元加治村等の豪族館跡に布目瓦出づるを見なば、決して斯く重大視するの要を見ざる也。
土人此辺を堀内と称し、其地の地名甚だ館跡たるの意味を含めり。
而して地は南に低地を控へ、北方もやがて、水田地に近く、館地として適当なるが如きを覚ゆ。
蓋し勝呂氏の拠地也。
其北方路傍に勝呂氏廼碑と称する小碑を立てり。
堀内にあり。
元亀三年須黒豊前守屋敷鎮守として勧請せし所と云ふ。
宿内にあり、東は堀内に接せり。
寺伝によれば延喜年間の創立にして昆盧山源光庵と称せりと云ふ。
其後康平二年源義家再営、次で須黒太郎恒高再興、観応以後龍穏寺末となる。
開山教覚観応三年寂、中興開山缺心御洲と称すと。
風土記の記す所と差違あり。
思ふに此寺観応文和の頃既に一寺となり、恐らくは勝呂氏の開某ならん。
徳川時代に入りては寛永元年端頭神谷弥五郎の再興なるべしと云ふ。
境内西方愛宕山あり。
明治十八年開墾せしに、輻八尺、長二間の石棺を得たり。
又元応三年と刻せる古碑を得たり。
又南五六十間にして狢山と称する所に大小二丘あり。
此処よりも石棺及金環等を得たりと云ふ。
境内に南無阿弥陀仏造立供養文和三年丙申七月孝子等敬白と記せる八尺許の大板碑あり。
又康平二年(平は永にあらざるか)と記せる小板碑あり。
年代甚だ古し。
元応三年貞治三年等記せるもあり。
勝呂町にあり、智積院末也。
寺伝によれば大同二年日教大僧郡の創立にして、平治元年日海住したりしが、比企能員祖先香華院たるにより祈祷所に当てたりと云ふ。
然るに風土記に稍々趣を異にせり。
曰く。
過去帳に初代日教、二代日海とあれど年月もなし。
中興開山俊誉慶長の頃住職せりと伝ふれども寂年も知れず、中興開基は黒川丹波守平正直にて、延宝八年に卒すと。
思ふに此寺中興せしまでは微々たりしならん云々。
思ふに此寺地は勝呂氏の祖先居住の処にて、其後堀内に移りしなるべし。
境内の様如何にも古蹟と思はる。
云々。
と。
風土記の説く所従ふべきに似たり。
境内に今も構堀の跡あり。
寺堂甚だ壮大、殊に山門の屋根大に高し。
鐘楼あり。
境外堂あり。
境内も頗る広濶也。
黒川氏の墓石あり。
又井上菽蔭の墓あり。
其他板碑大小甚だ多し。
寺は真言宗の名寺にして其末寺三十二ありと云ふ。