宿内にあり、東は堀内に接せり。 寺伝によれば延喜年間の創立にして昆盧山源光庵と称せりと云ふ。 其後康平二年源義家再営、次で須黒太郎恒高再興、観応以後龍穏寺末となる。 開山教覚観応三年寂、中興開山缺心御洲と称すと。 風土記の記す所と差違あり。 思ふに此寺観応文和の頃既に一寺となり、恐らくは勝呂氏の開某ならん。 徳川時代に入りては寛永元年端頭神谷弥五郎の再興なるべしと云ふ。 境内西方愛宕山あり。 明治十八年開墾せしに、輻八尺、長二間の石棺を得たり。 又元応三年と刻せる古碑を得たり。 又南五六十間にして狢山と称する所に大小二丘あり。 此処よりも石棺及金環等を得たりと云ふ。 境内に南無阿弥陀仏造立供養文和三年丙申七月孝子等敬白と記せる八尺許の大板碑あり。 又康平二年(平は永にあらざるか)と記せる小板碑あり。 年代甚だ古し。 元応三年貞治三年等記せるもあり。