坂戸町

総説

現状

坂戸町は郡の北部に位し、北は越辺川を隔てゝ此企郡高坂村を臨み、東は勝呂村、南は鶴島村、西は大家村及高麗川を以て入西村に境せり。川越今宿街道と豊岡高坂街道とは町の中央に於て相交叉し、又桶川への街道は町の稍々北部より東へ走れり。川越町を去る二里半、越生町を去る二里余、豊岡町を去る四里弱也。

地勢東南部は高台にして、林畑多く、土質も壌質壇土也。西北部は一帯に低地にして、水田多く、土質も壌土也。高麗川は西境を流れて、北境の越辺川に合し、山田川は鶴鳥村より来り、町の東部を流れて、北方に進み、高麗川より来る用水と合して、飯盛川となり、東して勝呂村に入る。

養蚕も行はれ、農も盛にして、未だ十分なる市街地と称すべからず。米、瓜、繭の産あり。又藺、席の産出も少からず。坂戸浅羽粟生田上吉田片柳片柳新田関間新田の七大字より成り、戸数六百二十八、人口三千七百三。

沿革

坂戸の名称は康平の頃坂戸判官教明と云ふ人住せるにより生ずと云ふ。然れども詳ならず。其の今の如き宿駅を為すに至りしは大導寺駿河守以来也。浅羽は即ち浅羽本郷とも称すべき処にして、児玉党の一派浅羽小大夫行業の一族あり。浅羽氏東鑑にも、太平記にも見ゆ。又古は此付近一帯浅羽野と称する原野なりしと覚しく、古歌多し。但浅羽野は信濃にもあり。故に古歌の全部を以て郡内浅羽野を詠へる者となし難し。更に入西村に北浅羽あり、法思寺年譜録康永三年の文書に北浅羽見ゆ。北浅羽村の存在も既に久しと云はざるベからす。粟生田も年譜録康応元年の条に粟生田彦太郎直村の名見え、又其青遠寺には曽て長亨三年の禁制書あり、入西郡粟生田郷内越生報恩寺領事右軍勢甲乙人等不可致濫妨云々沙弥判と記せりと云ふ。上吉田片柳は密接の関係ありしにや、片柳の小字に下吉田と称する処あり。役帳には卅八貫九百十八文河越吉田郷太田大膳亮と見えたり。片柳新田関間新田とは共に亨保年代の開墾地也。江戸時代の所属、川越領采地支配地殆ど錯綜せり。采地支配地は明治元年知県事、二年品川県、韮山県、川越領は二年川越藩、四年川越県、而して同年全村入間県(五大区三小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所に属し、十七年坂戸外六村連合となり、二十二年七村を合して坂戸村となり、二十九年末(或は三十年)町制を布く。

坂戸

坂戸は町の稍々南部に位せり。古は更に西南部、今の元坂戸の辺に人家ありしが、後北条氏の時、小田原或は八王子より鉢形或は厩橋へ往来の地方に当りしかば、天正十二年大導寺駿河守、元坂戸より農家三十九戸を移して、新に駅を開けり。次で江戸時代には八王子日光街道に当り、千人同心が往来の馬次なりしかば、宿駅大に繁昌せりと云ふ。従て町は明治に至て幾分の衰状あるが如し。

坂戸神社

明治十六年左の六社を合し、十六年社殿を改造し、坂戸神社と称す。坂戸一丁目にあり。

天神社

島田某の此地を領せし時は其屋敷鎮守なりき。

白髭神社

村社。

諏訪神社。

八坂神社。

白山神社。

日枝熊野神社。

粟生田稲荷天神諏訪の三社。上吉田諏訪神社も此に合祀せられたり。

白山神社

村社也。今は坂戸神社に合す。風土記に曰く。

当社免田其中の小頭源蔵といへるものゝ家に武田信玄より与へしとて文書一通を蔵す。其故を尋るに元は今の宿の東北比企郡へ行く道の傍に住せしに、天正中信玄鎌倉より古河へ往来の時、道にて馬具の損せしを、源蔵の先祖修理せしにより与へしといふ文書の写を、左に載す。

向後御細工之奉公可致勤仕之由言上之間郷次々御普請役有御赦免者也仍如件

天正五年六月廿一日 跡部大炊助泰之

六右衛門

按に天正五年の文書をもて信玄より賜ひしと云ひ、且此頃信玄鎌倉より下総国古河へ通りしと云へど、信玄は天正元年に卒せり……思ふに甲斐国より移住せしものにて、彼国にありし時の事なるべし。

と。但信玄は永禄十三年鉢形を攻め、小田原に進まんがために此辺を南下した。

永源寺

龍穏寺末にして、曹洞の名刹也。長溪山と号す。風土記に曰く。

天正十八年島田次兵衛重次、当村を賜りし後、慶長十二年その父左京亮某三河国より爰へ引移し、己が菩提所となしたれば、是を当寺の開基とせり。此人は慶長十八年五月十五日卒す。法名源翁永源庵主、開山は本山十四世大鐘良賀、慶長十九年正月二十八日寂せり。後寛文二年丙丁の災に罹りしを、明る三年島田出雲守再興せしと云へり。

と。後、寺は弘化三年復焼失し、嘉永二年庫裡を建て其本堂は明治十八年に成れり。寺宇清浄、鐘楼あり、山門あり、境内頗る広濶、杉樹密生せり。

其他常福寺(大智寺末文明十二年建立と称す)、正蔵寺(大智寺末慶長四年建立と称す)は廃寺となり、薬師堂と観音堂あり。薬師は坂戸判官の守本尊と称せらる。又常泉寺蹟は南方、道願山と云ふ処にありて、坂戸判官の開基せる寺なりしと云ふ。寛永以来廃寺たり。

浅羽

浅羽は町の西南部にあり。始一村なりしを、正保以後上下に分ちしが、明治に至て又合して一村とせり。浅羽氏の拠地は隣村大家村萱方にあり。曽て宿並と称する処あり。或は鎌倉街道若くは之に劣らざる旧街道の宿駅なりしならんかとも云ふ。経塚、旗塚等称する塚ありしも今は大抵之を見ず。

浅羽の南部に一古墳と覚しきものあり。墓地となりて、墓石相列びたり。其処に一大板碑あり。高八尺五寸、幅二尺二三寸

光明遍照 右志者為自他法界

十方世界 衆生也結衆三十人

応長二年壬子三月十五日敬白

念仏衆生 大檀那安部友吉

構取不捨 並長田守行

と記したり。安部友吉、長田守行如何なる人なるやを知らず。

土屋神社

明治四十二年土屋権現社に神明稲荷、幡戸明神、天神の諸社を合祀したるもの也。土屋神社の社地は、稍々大なる古墳と覚しく、本社は土室にして付近に大板石の横はれる様石棺の存せし塚穴なるが如く、拝殿は其前に建てられたり。本社土室の後方丘形を存し、周囲三丈二尺の大神代杉あり。社の旧別当大蔵院、今は神職として奉祀せり、永正十年の鰐口を蔵す。

又合祀せられたる諸社中、幡戸明神は元下浅羽分にありて、萱方城(浅羽氏の拠)攻の時、塚上に建てたる旗を神体とせるものなりと伝へたり。

長久寺

大智寺末、八葉山来遊院と号す。中興開山争含貞享元年寂す。鐘楼あり。

薬師寺跡

大智寺末、本尊は浅羽左近将監の守本尊なりしと云ふ。今は廃寺たり。

粟生田

粟生田(あおた)は坂戸の西に連り、高麗川に瀕せり。戸数七十。

稲荷神社

坂戸神社へ合祀せらる。

天神社

坂戸神社へ合祀せらる。

諏訪神社

坂戸神社へ合祀せらる。

青蓮寺

法恩寺末にして、福護山と号す。創立詳ならず。但法恩寺末中寺格比較的高し。今の本堂は文政五年焼失後に造る。近年久しく無住となれり。

粟生田の小字

山王は青蓮寺西北に当り元日枝社のありし所にして即ち浅羽土屋神社に存する鰐口に武州入西郡粟生田上村七所宮常住鰐口永正十年……と刻せるは、此日枝神社に属せしものならんと云ふ。大山屋敷と称するもの風土記に見えたれど、今は存せず。地蔵堂と称する小字は山王の近傍にあり。地蔵寺跡にて、今も地蔵堂ありと云ふ。

上吉田

上吉田は北部に位せり。

諏訪神社

天神八幡の合殿とす。今は坂戸神社に合す。

万福寺

大智寺末、天正五年松平主計宮鳥縫殿介と云ふ者の開基なりと云ふ。松本宮島二氏は元武田氏に仕へ、信濃に住したるものならん。宮島氏今も存す。

片柳

片柳は村の東部に位す。

飯盛神社

古き鎮坐にして、元亀年間三十三番神を配祀すと云ふ。明治四十二年、稲荷熊野、荒神、八坂、白山、天神の六社を合祀せり。

休台寺

日蓮宗の一寺にして、小湊誕生寺に属し、正覚山と号す。開山日慶天正八年寂す。中興開基横田次郎兵衛延宝七年卒す。祖師堂あり。鐘楼あり。

片柳新田

片柳新田片柳の南、坂戸の東に当れり。

八幡神社

村社、境内に稲荷社あり。

関間新田

関間新田片柳新田の東南に接し、村の東南隅に位す。

富士浅間神明合祀社

亭保十年の勧請にして、村社也。境内に稲荷社あり。

福泉寺

曹洞宗、東京浅草水見寺に属し、自保山と号す。創立は江戸時代也。