善能寺

善能寺は村の西南西部にして、小山の西に続けり。戸数五十。

天神社

入西神社へ合す。

金比羅神社

坂戸越生街道に面し、約一丈許の塚上にあり。近隣に名を知られたる神社にして、今は入西神社へ合祀せられたれども尚賽客多しと云ふ。其金比羅縁起も亦著名にして、寛政年中に成り風土記にも屡々引用せられたれど、其記す所、稍々雑然たるの嫌あり。且其記事に稍年代の誤謬あるが如し。著者は故障ありて未だ実物に接せず。今写によりて批判す。

善能寺

大龍山と号し、曹洞宗大家村田和目恵源寺末也。寺名は村名に及び、其古刹たるを知るに足ると雖、開創年代明ならず。或は曰く、古は臨済宗に属し、文和年中広沢善応なるもの建立し、依て善応寺と号せしが、承応二年に至り、曹洞となり、善能寺と改むと。末だ遽に可なりとすべからず。或は曰く開山玉芳菊和尚天正五年入月十日寂、其頃寺は臨済寺なりしが、今も一寺の隣地に住する広沢氏の祖中興して曹洞の寺院とす。中興開山、中英性和尚は実に広沢氏の二男なりきと。要するに変遷の体裁は略ぼ斯の如かりしものならん。彼の金比羅縁起に記す所は必ず、何等かの暗示を与ふる者ならんも、其証拠村料大抵消失、軽々しく推定を下し得べきにあらず。墓地には嘉元三年乙巳十二月十二日敬白、明徳二二年戊已十月廿七日妙好禅尼善根(毎日晨朝入諸定等の句を刻す)嘉吉三年、建武三年丙子八月日敬自右志者為明法禅尼逆修離六道旧域致賽土之台、南無阿弥陀仏永和二年癸巳正月九日鏡円等の稍々大なる板碑あり。又寺の南、小池の傍天神社拝殿の下に、板碑四五十枚あり。近頃池中より出せしものなりと云ふ。村民之を「機石(はたいし)」と称し、崇敬するもの多しと云ふ。善能寺今は門なく、本堂と庫裡あるのみ。村民之を上の寺とも云へりとぞ、又寺の東方路傍に大板碑あり。

都婆 右志趣者為逆修追善之衆並同心 (上欠)心道文和二 者心 合力之人乃至法界現当成就也

と記せり。武蔵野話には苦林川角村)と入間川村との間は行程三里も隔てぬ。此地の背を流るる越辺川に沿ひて畑あり。其中に大木の一枯松あり側に古碑ありとして、此碑文を出せり。

国正寺跡

下の寺と称せしものにして、普照山と号し、満開和尚一代を以て廃寺となれりと云ふ。但十三四年前までは寺形を存したりきと云ふ。