八幡神社
宮前にあり。創立不詳なれど、社の西に館蹟あり。社は其氏神として設けられたるものならん。社殿見るべく、社後は越辺川の断崖也。崖に周囲二丈の老杉あり。
川角は元川門とも記し、村の西部より中央部に及び、別に大類を隔てゝ、玉林寺と称する飛地を有せり。戸数一百十余。鎌倉街道の跡は其東部にあり。道に接して寺地の蹟あり。宿駅の存せし処あり。今や草生蟲嗚古の面影を見るべからず。小室氏、清水氏、岸氏、仲井氏を以て古しとなす。
宮前にあり。創立不詳なれど、社の西に館蹟あり。社は其氏神として設けられたるものならん。社殿見るべく、社後は越辺川の断崖也。崖に周囲二丈の老杉あり。
内手にあり。霊鷲山と号し、龍穏寺に属す。永禄三年永元入道創立にして、鉄心御洲の開山なりと云ふ。其以前或は小庵ありしものならん。墓地に二三の板碑あり。或は寺地が館蹟に接近せるより思ふに寺は館主の菩提寺たりしやも計られず。永元入道の如き蓋し館主の一人にや。或は曰く永元入道は小室氏の祖なりと。
八幡社の西より、浄光寺西方の地方に至るまて、土居の跡稍々連続せり。今は清水儀助氏の家を称して堀内と名け、其西北、竹林の地に於て土塁の跡最も明に存す。清水氏は元、村の東方吹上に住し、応永(?)の頃此地に移れりと云へば其以前何人の住せし処にや、年代遼遠到底究むるに由なし。
東方にあり。其東は鎌倉街道にして、今は雑木の林中九尺有余の大板碑を存す。「帰命本学心法身常住妙法心蓮台本来具足三身徳延慶第三暦仲春仲旬奉興立趣意者為大檀那沙弥並朝妻氏女」等の文字を刻したり。寺は元大伽藍なりしにや。然れども崇徳天皇に関係ありとの説は信すベからず。土人はソ-トク寺と呼べり。
川角の飛地にして今は玉林寺と称する寺院を見すと雖、地名の起因は恐らく寺名に出てしものならん。有名なる塚原は此地にあり。稲荷神社あり。小祠也。
塚原付近にて貞治年中足利基氏が芳賀入道を討ちし処也。室町時代は此外諸将の陣せしとありしなるべし。