八坂神社
中央にあり。村社也。明治四十年雷電神社等を合す。
西大久保は大類の東南に位し、大家村欠ノ上と接せり。元大久保と称せしも、南畑村大久保と区別して、西大久保と呼ぶ。
中央にあり。村社也。明治四十年雷電神社等を合す。
北部の雑木林中にあり。土地幽遠、村人と雖往々此地に至らんとして道を誤るものあり。板碑の大なるもの二三基あり。其一に「弘安三年庚辰□月八日右志者為父母幽霊頓証大菩提沙弥願主敬白」と記し、他の一には「応長元年十月八日弟子比丘尼仏性沙弥願主三十三年」と記せり。外に尚小なるもの二三基あり。
浄楽寺蹟の南に近く、稍々土居の跡を存する処あり。近年まで尚諸処に土居を認めたりしも、最近に至て漸く其処を失へりと云ふ。曽て何人の住せしやを明にせずと雖、或は粟生田氏などの居りしにや。西大久保は概して萱方浅羽氏の配下にして、粟生田氏の如きも或は浅羽氏の一族なりしにや。
南方にあり。今は小名となれるのみにて、他に寺蹟の徴なし。
越生街道の北に接し、仏坂に続けり。低き土居の跡を見る。三河国より大久保某の来り住せし処なりと云ふ。依て名けて三河林と称す。