沿革

毛呂村の地方は鎌倉時代の始より既に開け、毛呂氏此処に居り、臥龍山飛来明神あり、八幡大神あり、又古宮明神の如きも或は比較的古代より存在したるものならん。斯の如くにして毛呂氏毛呂村地方を中心として、近村に勢威を振ひ、南北朝を経て室町末期の頃に及びしが、北条氏の勢力関東を圧するに及び、毛呂氏も之に服属し、而して漸く其氏名を史上に没するに至れり。

かくて江戸時代には毛呂七村と称せられ、毛呂本郷、堀籠、馬場、平山、長瀬小田谷前久保に分れ(寛文十二年七村に分てりと云ふ)元禄年中川越城主松平美濃守の領する処となりし外は大抵常に采地たりき。寺社領を除く(但一二個村は暫時支配地となりしことあり)。明治元年武蔵知県事に属し、二年品川県となり、又韮山県となり、四年寺社領を併せ、次で入間県と称し、六年熊谷県に属し、八年堀籠、馬場、平山の三村を合して岩井と改め、九年埼玉県に入り、十二年入間、高麗郡役所の下に属し、十七年前久保岩井川角連合に入り、毛呂本郷小田谷長瀬は現今の山根村に属する諸村と共に毛呂本郷連合を作れり。而して二十二年に至りて毛呂村成る。