毛呂氏

前述の如く毛呂村は夙に毛呂氏の拠地たりしものの如く、毛呂氏度々古書に見ゆ。東鑑文治二年二月二日の条に、「毛呂太郎藤原季光国司事。是太宰権帥季仲卿孫也。心操尤穏便、相二叶賢慮一歟、旁理運之間、就為二御分国一夕挙二申豊後国一給云々」と見え、同六月朔日の条に、「入レ夜豊後守季光献二盃酒一、昨日自二武蔵国一参上云々」と見え、又建久二年三月五日火災の際相模の渋谷庄司と武蔵の毛呂豊後守と最前に馳参せると見え、又「建久四年二月十日毛呂太郎季綱蒙二勧賞一(武蔵国泉勝田)云々」と見え、又「仁治二年四月廿九日大仏殿造営之料、毛呂五郎入道蓮光分五千疋弁償云々」と見えたり。降りて戦国時代の史書にも毛呂氏の名往々あらはる。例へば鎌倉大草紙(足利持氏滅亡記)永享十三年七月四日「一色方へ馳せ加はる軍勢雲霞の如し。味方に加はる軍兵入西には毛呂三河守」云々とあるが如き是也。少しく降りて古戦録にも後北条の麾下として、毛呂土佐守の名を出し、風土記は大谷木大谷木氏所蔵毛呂氏に関する北条氏政以下の文書五通の写を掲げたり。蓋し毛呂氏は鎌倉に仕へ、後室町時代に入りて上杉氏に属し、次で後北条氏の配下となりしと明也。

後にも記すが如く、毛呂本郷妙玄寺付近及小田谷長栄寺付近は少くとも或時代に於ける毛呂氏の住地たりしなるべく、山根村大谷木大谷木季利氏は毛呂氏後裔の一と称せられ、其の住宅の東方に「季光公之碑」を建てたり.碑は毛呂氏の祖季光の事蹟を略述せるものにして、明治十五年大沼厚の撰文也。又山田氏も毛呂氏の後と称せらるれども、今其所在を知らず、現今長栄寺に蔵する毛呂山田氏系図は大谷木本、田畑本と比較し、或は史上の事実と対照して、取捨増補したるものの如く、曽て風土記に引用せられしものと若干の相違を生じたりと雖、毛呂氏の事蹟を究むるに又一の参考材料たるを失はず、但其正確なる史実に至っては到底得て之を詳にすべからざる也。」毛呂氏が、毛呂地方に拠りしと殆ど並行して、越生氏は越生地方にあらはれ、然も其期間殆ど相等しく、其地方相接近せり。然れども其関係は全く不明也。之れ毛呂氏系図等によるも、又越生氏の材料たる法恩寺年譜録等によるも此両氏は全く交渉ありしを記さざればなり。