瀧ノ入は村の北部に位し、毛呂川に沿ふて稍々低地也。人家百二三十戸あり。
桂木山の頂上に近き処に観音堂あり。大同年間の建立と称せられ、元山頂にありしを、後世山腹に移せりと云ふ。法恩年年譜録には僧行基が山に名づけ、仏像を彫りしを記せり。要するに古堂なり。堂の入口に仁王門を設く、丹朱傍の長松と反影して亦一層の雅致を添へり。
観音堂の下に桂木寺あり。創立不詳、但天正の頃まで約二百年許の間は越生正法寺に属したりしが如く、寺宇廃るに及で、龍穏寺十四世良賀中興開山となり、従て龍穏寺末となる。時に慶長元年三月也。
住吉神社は瀧入の鎮守にして、古老の伝ふる所によれば、旧別当行蔵寺中興開山教由が永禄年間勧請せる所と称せらる。其後元和六年、寛永十八年、明暦元年、宝永三年造営し、亨保十七年修営せり。明治五年村社に列せらる。
高福寺は瀧之入の東端に位す。行阿山と称し、明応若くは文亀年間の創立なるが如く、開山作仁子長永正元年示寂せり。二世天文二年、三世弘治三年、四世天正十六年に寂し、五世大正良賀に至て龍穏寺末となる、良賀慶長十九年に寂す。其墓地に板碑二りあり、一は「応永九年八月十六日了愛書記」と記し、一は「元亨二二年」と記す。寺は山側に位し、東南面に毛呂本郷を望む。
風土記には「此村に行庵(庵は阿の誤にや)寺高福寺とて二寺ありしが、慶長の頃僧良賀之を合して行庵山高福寺と号し後安楽山と改む行庵寺の跡此寺の後にあり」。と記したれども、土地の人全く之を知らざるが如し。風土記誤れるにや」。
瀧の入に大野を称するもの甚だ多し。然れども風土記に出でたる大野和藤次の家は今や徴禄せりと云ふ。風土記の伝ふる所によれば和藤次の祖北条大炊助照重、北条氏直に仕へ、大野を氏とす。其後八王子に住し、次で毛呂村岩井平山の地に住せしが、其地を村田和泉守に譲りて瀧入に移ると。其系図の如きは一々信ぜずして可也。