阿諏訪

阿諏訪は村の稍々中央を占めたり。阿諏訪川に沿へる狭長なる渓谷なり。戸数六七十。小学校は此地にあり。

龍谷山

龍谷(りゅうがい)山は阿諏訪の東北に位し、古要害山と称す。登道十町余。老松枝条を交へ、山容亦尋常にあらず。東方は水田及毛呂川に臨み、山上の眺望甚だ壮大也。伝へ言ふ。往古阿弥和巳之助披砦を此山上に築けりと。

今も馬場の跡と称するを存し、近年まで土居の旧趾も僅に残りたりしと請ふ。兵燹の遺物として発出する炭米今尚泯滅せず。然れども其事跡詳ならず。山上に雷電神社あり。

雷電神社

龍谷山上にありて、創立の年月を伝へず。寛保三年正月別当大行寺法師宥恵の撰し記録によれば、寛正六乙酉年八月吉日造営金幤一本社殿に安置す。其裏面に永禄四年酉年八月造営とあり。爾後当社を阿諏訪大行寺瀧入行蔵寺の別当にて隔年両村より祭典を執行して、明治五年に至る。此年村社に列せらる。明治四十年拝殿を造営し、村内無格社神明社及日枝社を合祀し、瘡守稲荷社を移し来て境内社とせり。

瘡守稲荷社

瘡守社は天正年間行和山に創立せられたるものにして、別当行福寺住僧の勧請せし所なりと云ふ明治四十年行和山より龍谷山に遷坐し参拝の人盆々多し。

寺跡

雷電社の旧別当大行寺は寛正六年の創立と称し、瘡守社の旧別当行福寺は創立不詳也。共に明治二年廃寺となり、今は其跡を存するのみ。