越生神社
東北部にあり。社地に近く、学頭沼あり。学頭沼は行基の学寮を起てたる処なりと称す。社は元根本神社?にして古くより存し、応永年中越生左工門尉光忠再営、延徳二年幸伝再営後寛文八年代官深谷善右工門再営せりと言伝ふ。明治四十年村社日枝神社を合祀し、越生神社と改称す。
東北部にあり。社地に近く、学頭沼あり。学頭沼は行基の学寮を起てたる処なりと称す。社は元根本神社?にして古くより存し、応永年中越生左工門尉光忠再営、延徳二年幸伝再営後寛文八年代官深谷善右工門再営せりと言伝ふ。明治四十年村社日枝神社を合祀し、越生神社と改称す。
法恩寺末にして、天正年代の創立なりしが、今は焼失して、寺跡を東北方に存するのみ。
東方にあり。丘側の地を占む。医王寺末。
元の修験にして、今は民家となれり。川角村西戸山本坊の配下にして、文化の頃越生岡崎より法流を譲られ、今も其文書を存すと言ふ。風土記には岡崎吉実の子孫正元元年越生岡崎に移住し、修験となり源栄と改む。是大行の開祖なりとあり。
高房は年譜録応永三十二年の文書に見え、助延は中古の名たる国延名(くにのぶみょう)を思ひ起さしむ。