第一期河越の地は今日の川越町の地なるや否や。 少しく疑なき能はず。 蓋し川越は旧河越或は河肥に作り、今の川越町の地は往古山田郷と称せられ、第一期河越の旧地に至ては恐らくは今の名細村上戸近辺の地なるが如しと云ふ。 普通の説に従へば其証と見るべきもの若干あり。
一、准后道興の廻国雑記に
「河越といへる所にいたり、最勝院といふ山伏の所に一両夜やどりて、
限りあれば今日分けつくす武蔵野の境も知るき河越の里。
此所に常楽寺といへる時宗の道場はべる」
とあり。 此に所謂最勝院は其跡到底弁ずべからず、従て之に依て河越の旧地を討(たづ)ぬるに由なしと雖、「此所に常楽寺といへる時宗の道場はべる」と云へるより見れば常楽寺近辺の地川越ならざるを得ず。 而して常楽寺は上戸にあり。
二、右の上戸常楽寺は川越山と号し、又三芳野道場と称せらる。 而して其西に接して館跡と覚しき地あり、南方的場村(霞関村に属す)に入りて三芳野塚、初雁塚、初雁池等あり。 的場村には矢場ありしと伝へらる。 天神祠もあり。
「武蔵国河肥庄
新日吉山王宮 奉鋳推鐘一口長三尺五寸
大檀那平朝臣経重
大勧進阿闍梨円慶
文応元年大歳庚申一十一月廿二日
鋳師丹治久友
大江真重
と刻せり。 此新日吉山王宮は上戸村の山王社に当り、 阿闍梨円慶は山王社別当大広院(今修験を止め、上戸氏と称す。社家たり。)の歴代の中に存せりと云ふ。
されば一般には此鐘上戸より川越養寿院に移されしものと信ぜらる。 然らば河肥の名称、 山王の祠と共に上戸村近辺に存せしを見るべし。
更に之を地理上より考ふるも、上戸近辺の地甚だ高からず、甚だ低からず、入間川其傍を流れたり。 或は若しも入間川にして、今の河床より少しく東方を流れたりとするも、其地川を去る遠からず、而して中間に肥沃の沖積層土あり、河越若くは河肥の称に当り得て妙なるを覚ゆるなり。
今卒直に編者の心事を吐露せしめば、以上三個の挙証も未だ極めて有力なるものと云ふと能はずして、而して他に其反証となるべき事蹟も一二を存す。 猥りに軽々しき判定を下すべからざるにより今仮りに多数説に従ふ。