郷庄里の制、既に茫として捕ふべからざる多く、殊に年代の変遷あり。 一時一所に行はれたる所を以て全般に及ぼすべきにあらず。 故に河越の旧地にして例令上戸にありしとするも新川越の地域が全然川越と称せざりしとは断定する能はざる所也。 然れども其或時代に限て之を言はゞ、或は川越の新地は他の名称を以て人々の口に登りしものゝ如し。 即ち今の川越町の存する地域は曽て山田郷と称し、今の仙波村大仙波新田の東部に宿場ありしが如く、其川越市街の地の如きは恐らく武蔵野の東北端に当て、茫たる草莽の中徒らに寒村の存するに過きざりしならん。 然れども其間又社寺等の自ら存するあり、喜多院、東明寺、行伝寺の如き、及稍々異説あれども、三芳野天神社、氷川神社の如き是なり。
喜多院付近仙波の地は比較的上古より開けしなのゝ如く、古墳の存するは前既に述ベたり。 延暦寺の高僧慈覚大師は已に天長七年の頃より此地を選で、東国に於ける台宗の重鎮を造りたりと云へば爾来盛衰ありと雖、山田郷殊に仙波地力の繁栄に力ありしと、云ふまでもなかるべし。 続て東明寺は北条時宗若くは貞時の時代を以て草創せられしと覚しく、行伝寺は南北朝の頃即ち永和年中の起立なりと云ふ、三芳野天神社及氷川神社に就ては諸説あり今は慎重の熊度を取て暫く之を省くとするも、川越市街の旧地域には、叢林あり、古家あり、古冢の上往々にして小社を設け、足利時代中世の頃は民家此間に散在せしものなるに似たり。 然るに足利氏中世に於ける関東の形勢は老練にして資望ある上杉持朝、明敏にして敢為なる其謀将太田道真、道灌をして、忽ち此地に着眼せしむるに至り、遂に長禄元年江戸岩槻等と並で一城を築きたり。 思ふに武蔵野の東北端、洪積層の高台にありて、北東に入間川を廻らせる山田郷天然の要害は扇谷家が古河に対する作戦上見遁がすベからざる地点たりしならん。
河越の城なるもの既に此地に築かれて、城下町の発達あり。 而して城名に従て地名も亦愈々河越として通用せられ、後遂に川越と記さるゝに至れるなり。 古老が伝ふる川越六社の稲荷の如きは恐らく築城以前に起原を有する小社なるべき也。
既にして扇谷上杉は対北条の気勢頗る昂らず、鎌倉を退き、江戸を追はれ、川越城を以て居城となすと、十四年北条氏奪て此を取り、爾来川越の地は、両上杉対後北条の決戦の衝となり、天文十五年の合戦の如きは市街に災したること少きにあらざるベしと雖、然れどもそれより以来後北条氏四十五年間の平和時代は、 民政完備し、産業興り、商工の民身を寄する多く、而して文教の事業亦漸く面目を新にせしものゝ如し。 斯の如くにして川越の地は城塞としても、市街としても、江戸、忍、岩槻、八王子等と併称せられて、然も其兄たり伯たるの面目を保ちたりしなり。