然るに天正十八年小田原陷りて関東一円徳川氏の有に帰し、家康江戸に居を構ふるに及では江戸は既に関東の覇府にして、又武蔵の一城にあらず。 此に於て弟たり叔たるが如き江戸の地位遂に進で、而して川越以下の諸邑殆ど旧観を改めざりしは、誠に止むを得ざりしなり。 殊に況んや慶長元和以後江戸は遂に全日本の首都たるに至れるをや。
然れども川越を以て日本の江戸に比肩すべからざるのみ。 之を武蔵一国内に見れば、依然たる一方の重鎮也。 故に徳川氏世々此地を以て直隷関内の藩屏となし、常に勲功親故の家を之に封じ、太平二百五十年、城廓の拡大あり、社寺の修造あり、市区の改正あり、此間江戸の花と称せられし火災も亦屡々川越の市街を襲ひ、古記に有名なる慶安二年武州川越に大雹降り重さ二斤、小は四十目、人馬死する多しとの出来事もありしが如く、飢饉、水災等も亦稀に其兇暴なる手足を市中に伸ばせしとありしに似たり。 然も大体に於て市街繁昌し、其発達を続けたりしを想像し得ベき也。
明治維新後県郡町域の編制、屡々変遷あり。 二年川越藩となり、四年川越県となり、次で入間県(一大区一小区)となり、県衙所在地たりしが、六年熊谷県に編入せらる、九年埼玉県となり、十二年入間高麗郡役所々轄にして、郡衙所在地となり、十七年川越町外五村連合、二十二年野田を割き小仙波を加へ八大字を以て川越町を組織し、二十六年大火に遇ひ、市街の大半烏有に帰せしが、忽ちにして旧に復し、然も其体裁旧幕以来の風に似ざるものあり。 今日の川越町は殆ど其頃に生れり。 続て二十八年川越鉄道の開通するあり、三十五六年頃川越商業会議所の設立、三十九年市内電燈の経営、四十年川越電気鉄道の竣工、四十一年特設電話の架設、四十二年織物市場の創設、四十三年繭糸市場の開場等は市運の隆昌に大なる動力となり、維新当時急激なる世変に伴ひ、一度繁華昔の夢と消えなんと疑はれし、封建の都会も商業地としての根拠略ぼ定まりたり。