天海僧正と喜多院に就ては諸書頗る之を記せり。 慈眼大師伝記の如き、両大師伝記の如き是也。 然れども甚だ誤謬多く、適帰する所を知らざるもの少からず。 抑も天海が喜多院に住するに至りしは一般には慶長四年と称すと雖、仔細に考 ふるに天正十六年慈眼大師初管仙波と記せる仙波川越由来其外見聞記及延宝八年の喜多院縁起の説を以て正しとすべし。 天海は此にありて常陸国信太の不動院を併せ管し、天正十八年十月一日徳川家康に江戸に謁せるものゝ如し。 謁見のと天正日記に見ゆ。 慶長十六年十一月一日家康放鷹して川越に至り、天海之に候す。 家康は因て仙波所化堪忍料として寺領寄附の意思を告げ、十七年四月 十九日天海参府し寺領三百石を寄附せられ、同年閠十月二十日家康復川越に狩して、領主酒井忠利に命じ、喜多院を修造せしむ。 一説に喜多院は此時、星野山の旧号を改めて、東叡山と号し、後上野寛永寺の成るに及て、東叡山を彼に譲りて、旧号星野に復したりと称すれども果して然るや否やを知らず。
慶長十八年八月慈恵堂建立成り、家康来て、論講聴聞す、十九年八月に至て大堂以下成る。 元和二年家康薨じ、久館山に葬り、翌年屍体を日光山に移すに当り、関戸府中を経て、三月二十三日の朝早く武蔵野の草叢を分け、小川、久米川、所沢を経て、仙波の大堂に着き、二十六日まて駐まりて後、伊草、松山を過ぎ日光へ赴きたり。 故に寛永十年正月十三日起工東照宮造営の事あり。 然るに十五年に至り川越に大火あり、火勢小仙波に及び、全山遂に焼土と化せしかば、徳川家光、川越城主堀田正盛に命じ、之を再営せしめ、十七年再び旧観に復す。 本堂、慈恵堂、山王社、多宝塔等厳然たり。 寺院は江戸紅葉山の別段を遷せるなり、此時建てられたる本地堂は明治十年寛永寺に寄附せり。
而して二十年天海寂す。 正保二年慈眼堂を立て、天海の像を安置し、慶安元年慈眼大師と謚せり、寛文元年祭田二百石を加賜せられ、旧領五十石(朱印外)前朱印五百石(駿府記には三百石)と併せて七百五十石となり、小仙波全部及大仙波の一半を領す。 之より喜多院の勢力益振へり。 今慈眼堂に存する天海像は神彩明に院に蔵する界海の東叡山建立に関する文書は史徹墨宝にも出てたり。