氷川神社
宮の越にあり。 伝へ言ふ。 水野多宮は太田道灌の旧友也。 川越築城の時、此地に移住し、氷川神社を勧請したりしが、大永元年正月十五日村の鎮守となれりと。 明治五年村社に列せられ。 四十三年村内の諏訪、愛宕、稲荷の諸社を合祀せり。
小室は略村の中央を占めたり。 戸数五十七、村役場及小学校は此処にあり。 伝へ言ふ。 長禄元年水野多宮の移住するや、村民漸く集り、人口増加すと。 或は曰く小室の名称は水野氏の法号に出づと。 思ふに水野多宮と称する人の此地に住せしことあるは事実ならん。 年代事蹟未だ必ずしも明自ならざる也。
宮の越にあり。 伝へ言ふ。 水野多宮は太田道灌の旧友也。 川越築城の時、此地に移住し、氷川神社を勧請したりしが、大永元年正月十五日村の鎮守となれりと。 明治五年村社に列せられ。 四十三年村内の諏訪、愛宕、稲荷の諸社を合祀せり。
曹洞宗にして川越養寿院に属す。 湖月山小室院と号す。 風土記によれば、「永正年中の起立にして天台宗なりしが、廃滅後僧学山及地頭水野多宮再建して曹洞とせり。 水野多宮天正元年八月十五日卒す。 案ずるに水野家譜に水野多宮守重は織部忠守の次男也。 法名宗三、父忠守の法名芳心。 入国後玉縄の城を守れりと記せり。 法心芳心音近ければ当寺は忠守の菩提のために中興せしなるべけれど、水野は三河譜代の士なれば入国前当寺を中興するの理なし。 思ふに寺伝年代を誤れるならん」。 と。
氷川社に関する伝説によれば水野多宮は法心禅寺の開基、文明十年正月十五日卒す。 時に九十五歳。 法名小室院月叟法心居士と称す。 徳川氏の臣水野越前守の祖先なりと。 此に至て愈補足する事を知らざるに至れり。 又風土記に法心寺の南に水野屋敷跡あることを記したり。 今は明ならず。