古尾谷八幡神社

字八幡脇にあり。 里伝に曰く、淳和天皇天長年間延暦寺坐主円仁(慈覚大師)詔を奉じて法を東国に弘むるの際、錫を此地に止め、灌頂院を起せり。 其後清和天皇貞観年中再び来て法を修する時、男山石清水八幡の分霊を奉じ来て之を祀る、神殿寺観甚だ壮麗を極めたり。 其後天慶二年祭田祠堂乱臣に奪はれ、僅に百分一を後世に残せるのみ。 爾来社殿益荒れ、条祀も挙げざるに至りしが、元暦元年源頼朝祭田を復し、祀典を起し、文治二年奥羽征討の際来て祈願する所あり。 凱旋後大い宮殿を造立せり。 それより弘安元年藤原時景と云ふ者、暫く此地を領し、社殿の頽廃を復し、梵鐘を鋳て社頭に掲げたり(天文中焼壊す)正平七年古尾谷刑部大輔人道古尾谷の内七郷を領し、二月小手指の戦に戦勝を祈り、吉瑞を得たり。 乃ち出陣し、足利氏に属して功あり。 凱旋後其子近江太郎信秀をして、刀を献ぜしめ、瀬戸之太刀と云ふ(今も存す)天文十五年四月神殿僧坊兵火にかゝり、社祠の体裁全く灰滅す。 天正五年二月北条氏政の麾下中筑後守資信更に社殿を造営し、古尾谷の中、若干を寄進す。 十八年徳川氏入国し、翌年家康放鷹を名とし、巡視して川越に至れる時参拝し、灌頂院に懇へり。 因て旧跡の縁故を問ふ。 住僧齡八旬、耳已に聾し、能く聞く能はず。 単に頼朝の事を述ふ。 是を以て後人多く頼朝創立の異説を伝ふ、正保中の鐘銘亦之に従へり。 後享保に至り本社拝殿摂社末社まで氏子各村分擔して、再築せり、以来明治に至り、四年川越県第二区の郷社となり。 其後分合廃置相尋きしも依然として郷社として存せり。 明治十二年今の社殿を造ると。 案ずるに此説、前半は殆ど疑ふべし。 然れども八幡の古社なるとは認むるに難からず。 境内広濶にして老樹甚だ多し。 朱塗の社殿、壮観也。 末社多し。