今福
今福は村の北及西北に位し、新河岸、入曽街道の沿道を主として、其付近に散在せる一大部落也。
街道に連れる人家は悉く北側に一列をなし、其長さ二十町を超ゆ。
之を宿と名く。
宿の北、所謂「窪の川」の近辺に散在するを中台と云ひ、宿の南東、砂久保の方に混入せるを原となす。
各字又各ゝ小区あり。
平野区北野区の如し。
今福(宿と原)の人家百五六十戸、中台の人家約四十、大字今福を総計して二百戸内外也。
蓋し福原村の一半を占めたりと云ふべし。
風土記によれば、此地承応年中近村大塚新田の民佐左衛門と云ふもの首として開墾せる所也。
然るに村の草分と称するもの別に尚一家あるが如し。
奥富より来て、原の平野区に居を構え、近傍を開発せりと云ふ。
佐左衛門は即牛窪氏。
今本系絶えたれども、家名依然たり。
平野に拠れるは志村氏、尚平野区に拠て、土地の古実家也。
家に検地時代の文書を蔵すること多し、それより山口氏は山口村より来て、人家三軒となり、十六軒となり.三十六軒となり、三十六軒に止ること久しかりしが、松平大和守の頃百九軒に達し、今は大約二百戸内外を有するに至れりと云ふ。
宿の東南、原の平野区にあり。
境内狭けれども、老梅二四本、檜樅之に交はり、古色深き一小社也。
拝殿荒廃し、土地低平陰湿なるも、寧ろ周囲に適合せり。
拝殿の後、小丘の上一小石宮を置き、牛頭天王を祀れり、伝へ云ふ。
往昔此付近の地、之を所有するものに必ず災害あり。
之を以て人々相計り、遂に牛頭天王を此地に祭り、付近一帯を社領となせり。
其後戦争あり(年代は勿論茫漠)疫病流行して、戦士倒るゝもの多かりしかば、此社に祈願して、難を免るゝを得たりと。
抑ゝ此社何れの頃に設けられたるか、今知るに由なし。
今の社殿は元治慶応の頃造営せられしものと覚し。
社領も今や多くは共有地となり耕作に附せられ、区名を採て平野神社と名く。
但一般には尚「天王様」と称せらる。
平野神社の南方、陣所蹟は砂久保分に入れり。
松一本特に拔んずるを見る。
今福の昔三十六軒時代に於て、鎮守を設くるの必要上勧請したるものにして、或は大塚新田天神社よりせりと云ひ、或は奥富梅ノ宮よりせりと云ふ。
宿の中央に位し、南大塚及大塚新田に出づる道路に沿えり。
今は牛頭天王を合祀し、今福の鎮守たり。
(中台を除く)、社殿清素、境内高雅也。
村社に列す。
天満宮の南に当り、其境内を借りて設立せる所なりと云ふ。
されば其開創の新しきこと知るべし。
天台宗にして、川越小仙波中院の末寺也 梅雲山観窓寺(風土記には桜雲山寛窓寺とせり。
誤也)と称す。
境内に観音堂あり。
妙見院は実に福原村に於ける唯一の寺院也。
此を除ては広き福原村中又一寺なし、故に村民の葬礼は川越、大塚、大仙波、亀久保、大袋新田等の諸寺に依ること多しと云ふ。
川越所沢街道より宿に入らんとする近辺より往々古土器古瓦の類出
づと云ふ。
伝ふる所によれば此辺曽て寺院ありしならんと。
然も年代遼遠、跡を尋ねるに由なき也、(但土器は中古のものならんと云ふ)此北方街道の坂に係る所、西に当て、長楕円形の古墳あり。
之を旗塚と云ふ。
但此辺、林中、畑中、共に古塚存することあり。
字中台にあり、街道の東に位し、一丘の上にあり。
其丘高三丈、項上殆ど正円形にして、直径六七間、中腹に御岳社あり。
松、樅の大木、若木と相雑はり、境内大に幽邃也。
山上の社殿亦之に適へり。
村社、中台の鎮守たり。
或は曰く。
中台の漸く開け始まりし頃に当ては、此丘、甚だ小、唯稲荷の小祠あり而して、実に武蔵野の境塚たるに過ぎざりし也。
然るに中台の漸く人家加はるに従ひ、八雲神社を此処に勧請し、丘を高くし、殿を建てたるなりと。
此事遂に今福、中台不和の因となりしが、今は両部落相合し共に大字今福と称せらる。