上富

上富は北永井の西に接し、東西十八町、南北三十町に達す。 戸数百二三十。 大村也。 此地元武蔵野の中に属せしを、元禄七年(九年トモ云)忠左衛門と云ふもの始て開墾し。 川越城主松平吉保之を上富と命名せり。

富士嶽神社

八軒屋にあり無格社にして、天保四年八月の創建也。

八雲神社

無格社にして、天保二年六月十五日の創建也。 近来富岡村中富神明神社に合祀せり。

多福寺

村の西北、小字木の宮にあり。 臨済宗京都妙心寺派、東京本所中之郷松嶺寺に属す。 三富山と号す。 元禄九年丙子三月。 川越城主松平美濃守保明此地に一寺を創立し、勅諡慈照妙眼禅師洞天大和尚を請して開祖たらしむ。 美濃守の弟虎峯玄章禅師之に嗣て住持となり、寺領若干を附し、且年々米百俵を賜はり、宝永元年美濃守甲府に移るや、城主より臨時寺費を扶けらる。 慶応三年火災にかかり、士蔵鐘楼を残すのみにして、他は悉く焼失せり。 明治三年住職柳沢柳門庫裡を再興し、現住職柳沢玄加明治十六年十一月を以て本堂を再建せり。

従て寺観元禄の昔に比して、劣れると勿論なりと雖、山門の付近の頗る幽邃なる、本堂の華麗なる、泉地の閑雅なる、然り而して境内の広濶にして、樹木多き、蓋し郡内屈指の名刹と云ふべき也。

地蔵堂

木ノ宮にあり。 多福寺の東南僅に一町ばかり、武蔵野木ノ宮地蔵と呼ぶ。 俗に有名なる富の地蔵是也。 口碑によれば、坂上田村麿奥羽征伐の時、此地に来て天変に遭遇し、地蔵菩薩を祈て其厄を免れ、且其霊護によりて賊を平げたりしかば、凱旋の後奏問して、此地に堂を建て、木宮地蔵奪を勘請せりと。 故に「延暦二十四年九月上旬出現」と記せり。 或は一説に開基を六郷伊賀守と称し、或は田村麿の後、建仁元年二階堂隠岐入道(頼朝の幕下)再建せりとも伝ふ。 何れも恐らくは事実にあらざるべしと雖、要之古き創立也。 武蔵野話によれば

留村は上中下あり。 其上留に古より木ノ宮地蔵尊の堂あり。 七月廿四日地蔵の区(マチ)とて殊の外賑ひ、八幡公(角力)などあり。 古より南北武蔵野の半なる故、此地を地蔵野と云ひ、又中武蔵野と云ふ。 昔は大塚亀窪村の原なりと云ひ伝ふ。 地蔵は亀窪木ノ宮地蔵院大塚村木ノ宮山西福寺の両寺之を守る。

と。 今も亦斯の如しの野話は又地蔵の本尊に就て古老の間に行はるゝ一説話を掲げたり。 其説によれば、中古地蔵の森頗る繁茂せし頃、出でゝ追剥強盗奸淫等を行ひしものあり、此に於て村民地蔵を土中に埋めて之を罰せりと。 然るに其後再び之を堀出さんとするもりありしが、未だ本尊に堀当てざるに日必ず暮れ、翌朝再び堀らんとすれば、既に埋まりて、前日の労空しかりしと云ふ。 堂は亀窪大塚に於て之を管理し、境内広闊、堂宇壮大也。 此辺甘藷の名産地なれば、近来境内に碑を立て之を後世に伝へんとするの計ありと云ふ。