愛宕神社
堀兼神社へ合す
東三ッ木は村の西北隅に位す。 戸数三十。 三木国重の来り開きし処也。 三木氏は平姓武蔵七党金子家忠の子孫なりと云ふ。 南北朝の頃西三木より来て此地を開き、一族繁栄して永く此地に住す。 此辺矢根石を出すことあり。
堀兼神社へ合す
三木国重の守本尊を安置し、三木氏の本宗、勇右衛門氏の宅地前にあり。 古は此辺全部其所有なりしとかや、堂は今も其管理する所にして、刀剣、鎧等の宝物あり。 堂後三ッ木氏の墓所あり。 中に妙□禅尼文明四年三月。 宝徳三年十月。 道雪禅門文明十七年十一月十三日と記したるものあり。 其他此辺に発見せられし板碑は飯能町能仁寺に寄托したりとかや朧ろげに語るものあり。
普門寺は元普門寺と称する寺院ありしも、精明村川崎に移し、今は唯地名に存す、大門先若くは東陽寺大門と称する処には今日東村大袋に移れる東陽寺ありと云ふ。
東三木の西部に位す。 新井某此地に要害を設けて居住せりと云ふ。 但里人は之を知らずと云ふ。
三ヶ久保と云ふ付近の地にして今は大抵陸田となれり、地勢高平也。 永享十二年上杉持朝、足利義教の命を蒙て結城満朝を討んとせし時満朝父子三人早く打出て河越の北三木原にて上杉顕定と戦ひ松山城へ引籠れること上杉家図にありしと云ふ。 少しく怪むべし。
然れども天文六年川越城主上杉朝定、北条氏綱と戦ひ恢復を計らんとせしに七月十一日氏綱急に三木に進み、十五日城兵と戦て大に之を破れるは確に此辺ならん。 旧鎌倉街道の跡と称するもの此近辺を通過せり。 「イマルガ」橋と稀する小橋あり。 或は付近に砦趾もありて焼米などを出し、上の城とやら呼ぶと語れるものあるに依り、土地に就て質したれども、何れも知らずと云ふ。 砦趾の説は恐らく誤ならん。