山口村

総説

現状

山口村は郡内南隅の一村にして、北は三ヶ島小手指二村、東は吾妻村、南は多摩郡、西は宮寺村に接せり。東西に甚だ長く、南北短く、所謂五日市街道村内を走れり。所沢町を去る一里なり。

地勢北西南は凡て丘陵に包まれ、東の一方平地也。丘間狭長、邑居開け、田園連れり。而して柳瀬川其丘間を西より東に流る。

農業、織物業、林業等行はれ、織物、綛、麦の産あり。又柿を出すこと多し。山口上山口勝楽寺三大字より成り、戸数六百一、人口四千百十七。

沿革

山口村地方は鎌倉の頃、既に開けたるものゝ如し。村山党の中、山口氏あり。其後連綿として南北朝若くは戦国の頃まで継続せしが如し。山口村即ち当時は山口郷にして其包括する処甚だ広し。後世山口領の下に一団とせられし村、入間、多摩に亘りて、九十二村あり。本村は蓋し山口郷中の山口たる也。

鎌倉古道の跡は大字山口によりて、其打越及氷川と称する小字にかゝれり。城あり。市街あり。曽て整然厳然たる一区を為せしものゝ如し、上山口には観音の大堂あり。勝楽寺には勝楽寺大坊あり。全村古蹟甚だ多し。

江戸時代は采地支配地相並び、明治元年知県事に属し、二年品川県となり、次で韮山県となり、四年入間県(三大区二小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年山口上山口勝楽寺荒幡連合を作り、二十二年荒幡吾妻村に入るや、三村続て連合せしが、三十五年に至り合して一村となり。従前の村域を以て大字となせり。

山口氏の世代

郡内に住せし豪族の事は殆ど全部、其系統を詳にせず。山口氏の如きも之に漏れざるものなりと雖、旧蹟考及里伝等によりて之を調査するに、甚だしき矛盾差誤なくして其世代を明にし得べきが如し。依て少しく之を掲げんとす。風土記が諸処に引ける山口氏世事並事蹟に至ては混乱錯雑到底理解し得べきにあらざる也。

山口氏にして東鑑に出でたるものを検するに、山口七郎は文治六年奥州征伐の時先陣の内にあり。山口次郎兵衛尉、山口小太郎も亦然り。山口小次郎は後陣にあり。山口兵衛太郎は承久三年宇治川にて手負の中にあり。

七党系図によれば村山家相継の孫山口太郎季信此地に住し、山口を氏とす。村山七郎家継を東鑑の山口七郎とすれば、次郎兵衛は嫡男、小太郎は嫡孫季信に当るにや。

山口家系図によれば、村山貫主頼任の孫山口七郎家継(金子家忠の叔父、始て山口に住す。町谷に第を構ふ)。子六郎家俊、子十郎高家、八代孫山口三河守高実(入間郡川越辺より足立郡までを領したりしが、鎌倉御所の為に戦死す。永徳三年六月十三日也。岩崎瑞岩寺に葬る)、子山口平内左衛門高清(父に先て貞始六年九月十八日川超にて戦死、瑞岩寺に葬る)此故に高清の子山口修理大夫高治、祖父の跡を嗣ぎ、上杉家に仕ふ。子山口小太郎高忠(明徳応永の頃山口領新堀村の山上に砦を構へり。龍ヶ谷城と云ふ)五代後山口主膳正高稿(北条氏康に攻められ、終に降る。此時砦も悉兵火のために灰燼となり、家伝の重器記録等も失ふ。)子下総守高俊子山口大膳高信(何れも北条家に属す)山口氏は其後流浪し多摩郡豊田村民となり、今も彼地に存せりと云ふ。

山口

山口は村の東部を占めたる大村にして、古来独立せし村落六七を以て一大字を成せり。曰く岩崎、曰く堀内、曰く町谷、曰く打越、曰く氷川、曰く菩提木、是也。其の合して山口村と称せしは明治七年なりと云ふ。戸数総計約三百。

中氷川神社

氷川にあり。中古兵灰に罹り、社殿烏有となりしかば、徴すべき憑拠なけれど、式内社なることは口碑に伝へたり、或は曰く此社、大宮町一宮氷川と多摩郡柏ノ保郷氷川との中間に位し、何れに赴くも里程八里あり、依て中氷川と称すと。信ずべからず。社に天正十八年禁制書、元亀三年山口平四郎資信奉納の表具一軸あり。又付近に出でし、布目瓦、土器、石簇、石斧、石剣の類を蔵せり。元禄二年社殿造営、明治五年郷社となり、四十年村社一、無格社九を合す。四十一年指定村社たり。神職山口氏、即ち元の普賢院也。然るに野話によれば氷川社は昔は氷川村の農民粕谷氏の持ちなりしを農隙乏しきにより享保の初頃より普賢院別当たるに至れりと云ふ。

瑞岩寺

岩崎にあり。曹洞宗にして、久米永源寺末、祥雲山と号す。山口氏の菩提寺也。開山照室慧鑑、天正元年十二月寂すと云ふ。然るに照室は中興開山なるが如し。寺に二基の古霊牌ありき。一は本願信阿大禅定門貞治六年丁末九月十八日とあり。是れ即ち山口平内左衛門高清にして、之を里伝寺伝に考へ、且史書に合すに、南方紀伝若くは桜雲記に出でれる正平二十二年(即ち貞治六年)二月五日関東の宮方平一揆、河越の城に籠れりとの事実に符合し、閏六月河越落ち平内左衛門同九月に至て、河越付近若くは、山口城に死せるものならん。又一基、故参州大守満叟実公大禅定門永徳三年癸亥六月十三日とあり。是れ即ち、平内左衛門の父山口三河守高実にして、之を当時の史に徴するに、永徳三年四月は小山義政が足利氏満に滅されて小山の叛一段落を告げたる時なれば、南朝方なりし山口氏の小山に党せるはずなく、党して逆境に陥らざる筈なく、六月に至て或は自仭し或は殺害せられたるものならん。寺に乗鞍、槍、茶臼、茶釜等を存す。山口氏が納めたる所なりと云ふ。墓地に五輪塔一基あり。文字は不明なり。又寺に、護良親王の像ありと云ふ。寺は江戸時代に至て、地頭宇佐美氏、及久具氏の墓所たり。

勝光寺

堀内にあり、瑞幡山と号す、臨済宗妙心寺派也。古は建長寺末なりと云ふ。此の辺の寺院多くは一たび済家たりしに、今日依然棒喝を以て一世を睥睨するもの、唯此一寺あるのみ。山門高く、鐘楼あり、庭前の大松自ち高風あり。開山は石門年代不明、中興普光勝智。天正年代の人也。本尊白衣観音。

来迎寺

堀内にあり。天光山無量寿院と号す。曹洞宗にて多摩郡二又尾海禅寺末、開山栄芝順富、天正十年六月寂す。本尊阿弥陀如来の縁起に至ては、奥州藤原秀衡の守本尊を鎌倉へ運ばんとして、車輪中途にして進まず、仏意に従て遂に此地に止まるに至りし旨を仔細に記せり。元の寺地は今は小学校となれり、為に堂は後方に退て、殆ど民家の観を呈せり。庭前建長八年辰二月廿三日と記せる板碑あり。

峯の薬師

来迎寺より、山に入り、少しく西北に赴けば、峯の薬師あり。鐘あり。音甚だよし。伝ふる者曰く。或人金を貯へて死せり。死に臨て頗る怨あり。乃ち亡霊出て、告げて曰く、某所に貯へたる金あり。以て鐘を作る可しと之に由て村人此鐘を鑄ると。

海蔵寺

町谷にあり、川島山釈迦院と号す。新義真言宗にして中藤真福寺末也。開創年月不明。或曰く、開山尊崇、文明年中の創立にして開基は岩岡民部少輸入道一乗なりと。明治四十二年打越の常応寺に合す。寺は柳瀬川の南岸にして寺地は山口城の土塁にかかれり。

常応寺

打越にあり。真福寺末也。

密厳院

菩提木にあり。菩提山仏国寺と称す。真福寺末、開山囚清元和八年寂せり。寺に近く菩提の古木あり。寺の裏に陣鉦堂あり。

山口城趾

堀内、打越、町谷に跨る。大字山口の中央より稍々西方にて、柳瀬川の岸にあり。現在城跡と認め得るは南北百二十間、東西百五十間、大手口は西方なりしと。東方塁の中に児(ちご)ヶ池(いけ)あり。池の辺高さ七八尺乃至一丈許の土塁を存す。更に城は柳瀬川の南にも出て、北方の山腹にも及びしが如く、共に低き土塁の跡を存せり。思ふに山口氏此辺に住し、時代の進ひに従て斯の如き城塁を構ふるに至りしならん。其落城は貞治六年高清の時とし、或は永徳三年高実の時とし、成は山口主膳正の時氏康に攻められたる時とし、或は天正十八年小田原攻囲の時とす。何れなるやを知らずと雖、系図は主膳の時の事とせり。或は然らん。児ケ池は二三坪の小池のみ。然も落城の時山口氏夫人児を抱て死せりと云ひ、或は一人の児童馬を馳せて池中に死せりと伝ふ。一種の説話也。

椿峯

字御国と云ふ処にあり。狭山々脈中也。高四五尺の塚上に古椿二株あり。新田義貞(茲には義貞といへり)が陣中食事の時、箸に代用せし椿の枝を挿したるものゝ生育したるりと。

梨ノ木戸

東北部にして、山口城より十数町。の大手なりしと云ふものあり。

上山口

上山口は山口の西南に接続し、村の中央より稍々西郊に位せり。正保の頃まては此辺を唯山口村と記したりしが、其の後新堀、大鐘、川辺、堀口等に分ち、漸次独立の村落となりつゝありしが、明治八年合して上山口村となる。堀口は明治以前より村名消失しつゝありき。

天満天神社

字天神場にあり。境内松杉生ひ茂れり。社下に小学校あり。勧請年月を和らずと雖、天正の末年地頭久松氏来るや、崇敬して社殿を再営し、堀口一村の鎮守とせしが、明治五年村社なり、二十八年社殿を再営し、四十一年指定村社となる。今は上山口の鎮守也。

清松寺

天神社の東二町許にあり、新義真言宗、真福寺末也。星見山無量寿院天神坊と号す。旧天神社別当也。伝へ言ふ。昔鎌倉の落人星見小太郎と云ふ者此に来て隠れ住み、庵室を結び星見堂と称し終焉の地となしたりしが、僧賢誉なるもの村内安楽寺の衰へしを此の処に移して、清照寺と改号すと。賢誉明暦二年寂す。

観音堂

新堀にあり。吾庵山金剛乗院放光寺と云ふ。一般には山口観音として人口に膾炙す。堂の側に古雅なる推鐘を掲げたり。元弘三年五月十五日新田義貞の祈願書と称するものを蔵す、果して然るや否や。天文中泉梅なるもの、盛に塔堂を設け、為に寺封開山と称せらる。今の本堂は宝暦十二年三月の建立也。本堂 書院 方丈 庫裡 開山堂 鐘楼 仁王門 等相並び、境内広濶にして高雅、自然の風致あり。寺観壮大にして静浄、人為の趣を添えたり。殊に堂の後方山巓へ登れば山口村の渓谷を眼下に指点すべし。蓋し郡内南部に於ける遊覧地の巨壁也。

勝楽寺

勝楽寺は山口村の西端にして、山間の別天地とも称すべし。古勝楽寺大坊あり。依て名けて勝楽寺村と云ふ。鎌倉街道あり。

七社神社

古記なけれど伝説には近江国月吉山王を分祀寺と云ひ。或は式内国請地祗社ならんと云ふものもあり。七社とは勝楽寺各字に鎮坐せる社跡六ヶ所ありしを何時の頃か之を此処に合して七社と名けしものならんと云ふ。凡て皆否也。風土記に曰く蔵王、聖女、八王子、大行事、手御子、副行事、権現の七坐を祀ると。此の種の神社の性質上風土記の説を首肯せざる能はず。社は高台にあり。正安、寛永、天明等の年代に社殿の造修営あり。村社にして、四十年無格社一を合し、四十一年指定村社となる。

勝楽寺

辰爾山仏蔵院大坊と称す。真福寺末也。創立甚だ古く、或は王辰爾の子其父の菩提の為めに開闢せりと云ふ。又王辰爾此地に於て終焉せしとの説もあり、野話に曰く、「山号を辰爾と云ふは恐らく敏達天皇の時、高麗より送れる鳥羽の表文を読み得たる王辰爾の墳墓あるがためならんか。」と然れども王辰爾は畿内にて死し、畿内に墳墓を有するが如く推定せらる。思ふに辰爾の後裔此の地に入り、此の寺をたてたるにや。野話尚曰く、「昔高麗人の来りし時、此の地に来り土地を見立てし上、今の高麗郡に住居なさしめ、其地に寺院なきを以て勝楽寺の住僧彼の地へ寺を建て、高麗山勝楽寺と同名を以て名けしならんと云ふ。後聖天を祀りし故、聖天院と云ふ」と。又曰く、「勝楽寺往古は大伽藍なり、鎌倉将軍の世々祈願所にして、十二の坊ありしが、鎌倉滅て次第に衰へ、今は七社権現の祠と勝楽寺大坊のみ残れり。十二の坊は其跡みな田畑となり、新田坊、テラウ坊、天狗坊、向坊、外坊、長明坊、東坊、北蓮坊、永源坊、勝般寺と地名に残れり。然れども三坊の名所知れず。大坊の鐘は延久の比のものなりしが。災に遇ひて、亀裂を生ぜし故、元禄年間改鋳して、延久の銘を刻り出し之に追加を加へり」と。又曰く、「大坊の西南堂地入と云ふ小地名あり。此の地より布目ある瓦を夥しく穿出せり。国分寺の瓦に似て重きこと、鉄の如し。又村中古き石碑(石の板碑也)処々にあり」。と。

城山

根古屋城とも龍ヶ谷城とも云ふ。勝楽寺の東部、上山口と接する処、狭山々脈の山上にあり。現今城跡と認めらるゝは南北五十間、東西四十間、北は峯続き、南は急坂にして、西は数丈の谷、東に池あり。山角(やまずみ)彦三郎の住城にて山口城の属城なりと云ふ。依て山角城とも云ふ。或は星見小太郎の住せし処と。野話に曰く、「七社の北の山に城跡あり。氷禄天正の比にや山住彦三郎と云へる人の住める城なる由、土人の話也」。と。

旧家に就て

野話は更に曰く、此村の旧家二十五ありしが、今は十四のみ。石川、野村、荒畑、池田、北田、高橋、内野、斉藤、二見、久保田、木下、荻原、中山、神谷あり。旧家二十五軒の外に粕谷氏も古しと云ふ。二見氏の家に古証文一通、旗印を紙に記したるありと。風土記は粕谷氏と二見氏を出せり。

近衛殿屋敷に就て

野話は又曰く、「大坊の南の山に近衛殿屋敷あり。何故なるを知らず。昔永峰二年十月中旬長尾輝虎関東を鎮めんため、近衛龍山公父子を介輔して関東人越山ありしことあれどもしばらくも此の地に駕を止めしをきかず。」と。