宮寺の名称に就ては其由来詳ならずと雖、武蔵野話には一説を掲げたり、日く。
古、国毎に一の最勝王院を造立し、紺紙金泥にて最勝王経を書写し納め置かれし事あり。武蔵に此院の跡なし。案ずるに宮寺郷矢寺、宮寺山(ぐうじさん)西勝院は境内の樹木など殊の外古く、其の郷を宮寺と云ひ、其地を矢寺と云ふ。又古き国図に宮寺町と記せり。されば西勝院は最勝院の誤にして王院の旧地か。又此地西久保と云ふ所に寄木宮とて素盞鳴尊を祀る。案ずるに出雲祀神社ならんか。此に依て此地を宮寺と云ふならん。
と。此説は風土記矢寺村大御堂の条にも記され、近来村人にして、故らに西勝院を最勝院と記すものあるが如しと雖、之れ大誤謬也。抑も古、国毎に国分寺を建て最勝王経を書写し納めしめたる事はあり。未だ最勝王院なるものを設けたるを聞かざる也。殊に最勝若くは西勝を以て寺院の号とせしもの、郡内に於て既に五六以上を数ふべし。西勝を以て最勝の誤なりとなすを得ず。西勝院も大寺也。寄木宮も古社なるべし。宮寺町の名も意味あるべし。然れども野話の説には賛する能はず。若し強いて宮寺の名称に就て究明せんと欲せば余は唯神宮寺を以て之に答ふるり外あらざる也。蓋し其の昔、宮寺町の存せし処は決して交通上、産業上の利便ありて、人家群を成せしと認むる能はず。唯寄木宮あり。(若し寄木宮にして不可ならば其他に、更に適当なる神社ありしとするも不可ならず)西勝院の如きは其別当即ち神宮寺として、奉齎し、依て以て参詣の人あり、神威仏緑に件ひて宮寺町の成立を来せしならん。神宮寺略して宮寺と称す。宮寺村の、名称として此以外の考案を思ひ浮べず。
村の南部、東京府と接し、狭山の余脈北、西、南の三方を限り、東の一方柳瀬川に沿ふて勝楽寺村に出づべし。故に此地、地勢上明に勝楽寺に加ふべしと雖、沿革上宮寺村に属せるものゝ如し。気候温暖、戸数二十四。
矢寺、荻原の二村を合して矢寺荻原と称し、又略して矢荻と称せしが、更に近来は矢荻を南北に分てり。縄竹の北に位し、丘陵を隔てたり。矢寺の名称の起原に就ては滑稽なる一説あり。採用すべからず。
北東は矢荻に包まれ、南は縄竹、西は中野に接す。戸数五十、東西、南北共に五町に近し。村の殆ど全部は陸田也。
矢荻及小ヶ谷戸の西にして、人家百余、村役場、小学校、隔離病舍等皆此地にあり。
堯恵法師の北国紀行に文明十九年六月廿八日、武蔵野の内、中野と云ふ処に平重俊といへるが催に囚て云々
露払ふ道は袖より村消の草葉に帰る武蔵野の原。
日高くさし昇りて云々
夏しれる空や富士の根草の上の白雪暑き武蔵野の原。
堀兼の井近き云々など載せたるは或は此の地にや。小字北中野は普通土屋新田と称せらる。土屋氏の開きし新田なるか。否か。土屋家譜によれば、土屋甚助利常。天正十七年駿府に於て東照宮に謁し、奉二百石の地を爰にて賜はりしこと見ゆ。天正十七年と云ふと少しく怪しむべきも、大体は然る可し。子孫相嗣ぎ、此地を知行す。其墳墓今尚、長久寺跡の畑間に存す。
矢寺及中野の北方に位す。戸数五十。大森氏の采地たりき。
狭山とも称す。中野の西南にして、狭山(山脈)の北麓に当れり。人家二十五。
中野の西に当る。陸田測量部二万分一地図は頗る坊村の位置を誤れり。街道旧蹟考に曰く、坊村とは例少き村なり。最勝王院(此名称不可)の坊などありしにや。と。
宮寺村の西部にして、寧ろ元狭山村二本木と接続し、地理上当然元狭山村に入る可くして、然も数回の紛争の結果今は宮寺村の中に入れり、戸数約三十、中央に洋風の高塔聳えたるは是れ天主教々会なりと聞えたり。全村悉く筬及下駄表の製造に従事し、二本木の筬の名殊に市場に信用あり。
南中野にあり。山際に接せり。元寄木明神と称し、村人は今も「ヨタヰ」様と呼べり。然るに例令焼失数回なりしと雖、社の体裁の古色深き、祭神の素盞烏尊なる等は延喜式神名帳に出でたる出雲伊波比神社ならんとの説出て、近年毛呂村飛来明神と共に出雲伊波比神社と称するに至れり。社地は高台にして、老樹あり。境内幽雅也。社殿も文化、文政の頃までは、本社、幣殿、拝殿、頗る整然たるものなりしが如し。社に弘治三年小田原北条よりの棟別朱印達の文書ありと云ふ。又石剱及御シヤク神三本ありと云ふ。村の鎮守也。社後に有名なる茶場の碑あり。
北中野南端にあり。神体は石剣にして、長六尺のもの一、四尺五寸のもの一あり。今より百四五十年前、新開地に移住せしもの井を穿たんとせしに、地下五六尋にして之を得たるなりと云ふ。小なる石剣は鍬に触れて折れたり。
北中野にあり。祭神不詳なれども、或は素盞嗚尊ならんと云ふ。社地の辺は元土屋氏の祖、住せし処なりと云ふ。村持なりしが維新後民有となれり。
大森の北部にあり。
矢荻にあり。
矢荻にあり。
矢荻にあり。宮寺山無量寿寺と号す。新義真言宗にして、多摩郡中藤村真福寺末也。中興の開山を知養と云ひ、元和五年十一月十五日寂せり。今の本堂は草尾根にして、古風、頗る大也。山門なく、二本の大杉立てり。又閻魔堂あり。風土記に曰く。
相伝ふ。此寺に昔宮守西勝と云ふもの住せりと。西勝の事は記録なく、知るに由なしと雖、東鑑にも正嘉の頃の人に宮寺蔵人政員など見えたれば、西勝は其族なるにや。
と。一説也。里伝によれば寺地は宮寺五郎家平の居地にて、其の間南北朝の頃加納下野守の住せし処、今は境内に土居の跡を見る。寺は何れの頃開創せられしやを詳にせずと雖、古は今の大御堂の地に存し、慶長十年中興開山智養。改めて加納氏の館跡に移せるなりと云ふ。文化年中火災あり、其十三年再興す。明治四十二年円乗寺を合せり。
矢荻にあり。元西勝院のありし処にして、今堂宇及天王祠を存す。宮寺家平手植と称する堂側の大杉は落雷のため枯木となれり。本尊弥陀、行基の彫刻と号す。古の額には大弥堂と記せしと云ふ。又古は別に小御堂あり、大小相対せりとも相伝ふ。
北中野にあり、浄悦山涼光院と号し、真言、真福寺末にして、中興頼喜、正徳年代の人と伝ふれども、安政三年及明治二十二年焼失して、今殿堂の跡なく、僅に馬鳴(めめう)堂を存す。俗呼てミンメウ様と称し、養蚕の守護神なりと云ふ。神体は馬上の像、土屋氏が奈良より持ち来りし処と称す。例祭三月十九日とす。堂の東に土屋氏の墓地あり。大石塔七基、小石塔三基、麥秀の中に立ち、人をしてそゞろに古を忍ばしむ。明治四十二年地福寺と合す。又北中野には古小御堂ありしが廃絶の後其地に地蔵堂を建て、長久寺に附属せしめしも、今其跡なく、僅かに残りし小御堂の小名さへ消失するに至れり。
小ヶ谷戸裏にあり。宿峯山と号し、真言宗、中藤真福寺末也。開山を頼栄と云ふ。三世智養元和五年寂せり。今の本堂は明治六年の造立にして、寺は今村役場たり。
大森にあり。大森山と号す。地頭大森好長の開基にして、好長法名を崇巖院と云ふ。依て寺名とせりと云ふ。寺は既に久しく廃寺たり。其鐘及び額は清泰寺に移せり。里伝によれば大森氏幕府の許可を得ずして、寺を建て、為めに厳命を蒙て之を毀ち仏躯を清泰寺に納めしなりと云ふ。
小ヶ谷戸にあり。真言宗、開山智賢正保三年寂す。寺は明治四十二年西勝院に合せり。庭前に虚明僧正の独鈷松と称するものありき。
坊にあり。高瀧山辺照院と号す。真福寺末。
武蔵野話に曰く、坊村に古より聖徳太子堂あり、と堂は今荒たり。
野話に曰く、「太子堂を守りし寺は臨済にて、長福寺と云ふ。開山は桃源宗悟にて永徳二年九月四日示寂、其後寛文九年二本木へ移す。其の時の住僧は關宗玄脱なりと、今寺分と云ふ畑は長福寺の跡なる由。天文二年二月吉日と記し、三体の仏像を描ける石碑此寺境内にあり。又五輪の台石あり。平氏長尾藤四郎とあれど年代知れず」と。長福寺今は長久寺に合せり。
山際にあり。西久保観音と称す。行基作観音の像なりと云ふ。其の像は二体ありしに、一体は六部に盜まれしと伝ふ。
一丈五尺許の塚にして、新田義宗の陣地と称す。未だ遽に首肯すべからず。
西勝院付近にして、土手東西五十八間、南北一町二十六間、高き処は一丈二尺、堀深き処は一丈ありと云ふ。加納下野守の築きし処にして、其初は宮寺家平の居住したる処なりと云ふ。加納氏は元弘、正平の間、常に新田氏の下にありて戦功ありしと云ふ。
伊波比神社後方にあり。小碑二基、一は重闢茶場碑記、(林輝の撰)、一は重建狭山茶場碑記(中村正直撰)也。蓋し茶は僧栄西が建久二年入宋して、貰し帰りたりと称す。之を全国五所に植え、狭山其一に居る。と云ふ。然れども里人は茶樹を以て野生に起りしものなるかの如く信ぜり。
宇治の新茶と狭山の古茶と出合ひましたよ横浜で……。村内俗謠の一、
居ねむり初めた狭山の茶をばゆすり起すは我役目…。村内俗謠の一、