豊岡町
総説
現状
豊岡町は郡の略中央部にして、稍しく南に偏せり。北は入間川を隔てゝ、水富村に境し、東は入間川町、東南は入間村、南は藤沢村、西は東金子村に接せり。川越、所沢、入曽、青梅及八王子、坂戸、飯能への街道、町より発して四方に向へり。川越町を去る三里半、所沢町を去る二里余、飯能町を去る亦同じ。入間川北境にあり、霞川、町の中央を流れて之に合す。入間川と霞川の間、土地頗る高く霞川の南も稍々高し。入間川、霞川の畔は低地也。土質は軽鬆なる埴質壌土也。茶、繭、織物の産あり。黒須、高倉、扇町屋、善蔵新田の四大字に分れ、戸数六百八十五、人口四千八百七十五。町勢振ヘりと云ひ難し。
沿革
豊岡町の地方は其あらはるゝと比較的に遅し。文明十八年廻国雑記に、くろす川といへる川に人の鵜つかひ侍るを見て、
岩がねにうつらふ水のくろす川
鵜の居るかけや名に流れけん。
とあるを以て、恐らく黒須の地は存して、地勢今と稍々異り、入間川若くは霞川の枝流を仮りにくろす川と称したるものならん。此処に鵜つかひとは甚だ詩的感興を惹く事なるが、黒須に近く、入間川の小字に鵜ノ木あり。又鵜を飼養し得ベき実例は近年入間川町の漁人が鵜一羽飼ひ居りしに見ても知り得ベし。
扇町屋は江戸時代の始には見るに足らざる寒村なりしが、八王子日光街道の設けられ、千人同心の往来頻繁となるや、伝馬の継立場となり、人家日に集まり、三八の日に市も立ち、穀物等をも売鬻ぎ、繁華なる宿駅とはなれり。恰も此頃は入間川町の如きは微々たる一村落のみ。扇町屋の勢は近傍又比屑するものあらざりし也。
高倉の如きも甚だ振はず、進歩の跡誠に徐々たるものあり。善蔵新田に至ては享保中武蔵野を開き、宝暦八年検地して一村となりし処也。
斯の如くにして、扇町屋の繁華を主として、豊岡町の地方は漸次其発達を遂げつゝありしも、明治に至て日光街道の往復中絶し、やがて汽車の便開けて入間川町に停車場設けらるゝに至ては、町運甚逆境なりと云はざるべからず。
江戸時代の所属は、曽て田安領となりし処もありしが、全町殆ど采地若くは支配地を以て一貫し、明治元年知県事に属し、二年品川県となり、次で韮山県となり、四年入間県(三大区四小区)六年熊谷県となり、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年黒須、高倉、小谷田、新久、根岸、中神の連合と、扇町屋、善蔵新田、藤沢の連合と行はれたり。二十二年四大字を以て豊岡町を成す。
黒須は町の北部を占めたり。戸数二百。野話曰、黒須村に川あり篠井川の上に
て分れ、又末同し川に落合ふ。其中の洲なれば黒須村ならんか。又永禄元亀の頃上田上野介の幕下に男衾郡玉川領木呂子(くろず)村所産の人にて木呂子丹波と云ひし人の知行にてもありしやと。黒須地勢の変遷説傾聴すべし。
久保田にあり。大和春日神社を分祀せるものなりと云ふ。宝暦二年再建の棟札あり。元西山にありしが、維新の頃今の地に移す。村社也。八坂、稲荷、愛宕、向山等の末社あり。
後(うしろ)にあり。世音山妙知寺と称す。高麗村聖天院末也。開山寂蓮年代不詳中興覚常、万治元年寂す。此時堂閣一宇を造る。貞享四年村内より鐘を寄進す。明治三十三年火災に罹り本堂庫裡を焼失す。三十五年再営す。本堂の北に観音堂あり。堂宇見るべし。然れども永禄以前は更に壮大なりしと云ふ。奉施武州比企郡千手堂鰐口大工越松本、寛正二年辛巳十月十七日願主釜形四郎五郎と刻せる鰐口を蔵せり。如何にして此処に来りしにや。境内広闊也。
聖天院末、中興覚寺延宝三年寂す。
蓮華院末、廃寺となる。
蓮華院末にして村の東にあり。今は其跡も知り難し。
信徒多く、冬至の盛呪云はん方なし。創立不詳、延宝年間里人覚寿堂宇を再営す。復廃る。嘉永二年地頭稲富氏より認可を得て、根本山三光院と云ひ、中興す、明治二十一年修験を止めて、天台に復す。元は今の警察の処にあり。明治八年移る。
根本山の後方に位し、高台也。雨地殆ど相接せり。昔陣屋ありし跡ならんと云ふ。
風土記に、大将軍、南の方扇町屋堺にあり。古大将の陣取りし処なりと云ふのみにて其名を伝へず。按ずるに元弘三年新田義貞鎌倉攻の時、入間川に陣す。又文和二年源基氏入間川に下向の事もあれば是等の時の事にや。前の上下小屋と云ふも同時の名残なるべし。と。今豊岡町の人に就て問ふに或は大将軍は無けれども扇町屋に近き高台の陸田に大将陣ありと云ふ。思ふに大将陣は大将軍を転訛せしめたるものにや。若くは大将軍が誤にして遠き古より大将陣として伝はり来れりとすれば、之れ川越仙波に於ける「南畑陣」と同じく、必ずや意味ある地名ならずんばあらず。然るに若し大将軍なりしとすれば、此に以て義貞若くは基氏等武将の陣地と認むるは早計なるやの威あり。
蓋し大将軍は小祠として古来僻地にも存したりし実例あり。又大将軍社には敷地のみありて社なきもありと云ふ。其依て出てたる原由に至ては恐らく陰陽道に基くものなるべしと雖、要するに八王子、若王子等と同一類也。大将軍と称するが如きを以て忽ち将軍陣地と為すベからず。今後の吟味を要すべし。
扇町屋は町の東南部を占めたり。戸数二百。風土記には昔民家の連りし本宿と称する小名を掲げたり。今の宿の東北に当るが如し。高台也。武蔵演路に曰く扇町屋、米商人、富家多く繁昌の町なり。八王子千人衆日光御番往還の通なりと。
中台神明窪の地にあり、社伝によれば、往古武蔵野の地が始めて開けんとするに当て、天照大神を祭り、中古正平十六年新田義興の霊を合祀し、嘉慶三年別雷神を合祀す。蓋し正平十三年足利基氏、新田義興の首を此地に検し、之を葬りしが、雷火あり、疫癘あり、里人恐れて義興を祭らんとす。基氏も畠山道誓に命じて義興甲胄馬上の像を造らしめ、之に軍扇を合せ、社を首塚の上に建て、之を祭る、天照大神も此時此に合祀せり。後弘和至徳の頃大火数次部落を襲ひ、嘉慶二年復大火あり、里人依て別雷神を勧請す。此時雷斧一、雷丸一を寄与す。天文年間祀官守屋伊豆、京師に参朝し、初号の勅許を得て新田大明神と号せしを、慶安二年の朱印には愛宕権現と記して、新田明神の称を禁じ、併て古文書を召上げらる。と。或は思ふ。此社の創立さまで古からず。初神明若くは愛宕の祠を設けて、而して後に新田義奥の信仰起り、一時私に新田大明神に擬したるものならん。義興の事は次項十三塚に述ぶ。明治五年村社となる。八雲、琴平、蚕影等の末社あり。蚕影は文政二年三月常陸筑波郡蚕影社より分祀せりと。
愛宕神社の後を廻りて古十三個の塚ありと云ふ。文政の頃は纔に四を存し、今は三を存す。病院の傍、道に沿へる一塚最も眼に就き易し。風土記に曰く、愛宕社々伝に云ふ。
義興は江戸竹沢に欺かれて矢口渡に於て、討たれけるにより彼の主従の首十三級を基氏が許に持来りければ、当所にて実検を遂げ、其首を埋めし所十三塚とて今も残れり。
太平記義興自害の条に云ふ。
其後水練を入て兵衝佐竝に自害打死の首十三を求め出し、酒に浸して江戸遠江守、同下野守、竹沢右京亮五百余騎にて左馬頭殿の御座す武蔵の入間河の御陣へ馳せ参る。畠山入道斜ならず喜で小俟少輔次郎松田河村を呼出して此を見らるゝに仔細なき兵衛佐殿にて候ひけりとて云々。
と。(尚前後を参照すべし)社伝は太平記によりて之を増補布演したると明にして、而して太平記に載する所、前後を考定するに多少の疑問なき能はず。或は仮令水中を物色して正確なる十三の首数を得て、酒に浸して谷口より入間川まで十三四里の道程を運搬し、基氏の実検に供したりとするも、十三塚を造りしの一事は太平記の知らざる所也。殊に著いき疑問は十三塚なるものゝ全国各処に甚だ多き一事なりとす。風土記によりて調査するも。地名若くは実物の上に存するもの、武蔵国に於て、橘郡十二、久良岐郡一、都筑郡三、多摩郡三、荏原郡二、中に注意すべきは其一が矢口村矢口にありて、十三人塚と称せられ、十寄明神の後にあり。新田義興及其従者十二人の墓なりと称す。と記されたること也。続て北豊島郡二、南埼玉郡一、大里郡一、而して入間郡一也り尚北足立及比企に就て、調査せるに
北足立郡桶川町下日出谷十三塚の地名あり。
同郡中丸村下宮内に十三塚ありて、全部若くは一部を現存するものゝ如し。
比企郡南吉見村流川に十三塚ありて、山の中腹に十三個列をなして現存せり。
尚注意すべきは土地により十三塚と云はず。十三坊塚、十三本塚、十三法塚、銭神壇等の名を冠すること也。而して其由来に関する伝説は僧侶の墓若しくは仏説に帰すると、武人の首塚(必ずしも義興と限らず)若くは戦争説に帰するとの二趣あるが如く、所在地の往々にして神社若くは寺院付近にあるもの少からず。豊岡町十三塚に至ては偶々義典の故事と符合するものありと雖、更に少しく眼を大局に注ぎ、諸国に存する許多の十三塚そのものゝ根本的性質乃至由来を究明せんことを望むや切也。
本宿にあり。老杉繁茂し、一の森林を成す。社は永禄三年の創立なりと云ふ。明治四十年愛宕神社に合す。
久保にあり。境内に老桜相連り、築山、神楽殿、絵馬堂等あり、明治初年には常設演劇場其他の観覧物ありて、大に賑へり。今も十余の民戸は殆ど社のために生活すと云ふ。社は天文年間守屋伊豆が京都稲荷山より分祀したる所と伝へられ、天明六年疫癘の流行せる後、頗る世に崇敬せられたり。
霞丘にあり。本堂は久しく学校に用ゐ、為に仏像は之を傍の観音堂に移し、堂舎甚が頽廃せり。
高倉は町の西部にあり。戸数一百余。其浅間社の高台は明治十六年近衛兵演習の時、明治天皇陛下親しく戦況を視察せさせ給へる処也。
宮小路にあり。元西高倉の産土神なりしが、維新の時、総鎮守となり、村社に列せらる、又付近の八坂社を合す。
若宮にあり。元東高倉の産土神なりしが、維新の時、総鎮守を氷川社に譲り、四十年氷川社に合す。
富士窪にあり。社地は高台也。神体は円鏡なるが如く、天文二年と刻せりと云ふ。四十年氷川神社に合す。
中小路にあり。能仁寺末、開山天良、天正十八年寂す。寺は今より百年前焼失し、殆ど見るべきものを残さず、観音堂あり。
善蔵新田は町の東南部にあり。戸数不明
愛宕台にあり。村社なりしが、明治四十年扇町屋愛宕社に合せり。
富士見台にあり。四十年久保稲荷に合す。