入間川町

総説

入間川町は郡の中央部に位し、北は奥富村、東は堀兼村、南は入間村豊岡町に接し、西は入間川を隔てゝ水富村柏原村に対す。川越青梅街道、入間川飯能街道あり。川越鉄道の駅路に当り、飯能及青梅へ馬車鉄道の便あり。近年隆々の勢あり。

地勢

入間川に沿へる処少しく低湿なりと雖、南方一円高台に属す。赤間川は入間川より分れて奥富村に入る。

土質

東北に壌土の処あれど、大抵は粘土、砂土を交へたり。市街地は砂礫土也。織物の産あり。又鮎を出す。大字なし。戸数千百六十、入口六千二百八十二、今や殆ど飯能町所沢町と相伍せり。

名称

風土記は入間川村の地方、元入間と称し、郡名の起原となりし処ならんと主張せり。曰く。「案ずるに村内子神社に掲げし応永二十三年の鰐口の銘に入間郷云々とあり、茲に入間郷と彫たるは全く村と云ふ心にて郷名にはあらざるべし。されど今も当村及奥富を入間郷と唱ふるは若くは古の郷名の唱へ残りしならんか。又川の字を添えしは近き頃よりの事と見えて、正保年中の国図及其頃の郷帳には入間村とのみ記したり。。」と。武蔵名所考は曰く。「志料に云ふ、入間の里即ち入間郡を広く指して云ふ。入間郷は和歌にも見えねど、此類凡て多し。と。案ずるに今入間郡に入間川村あり。土人の説に昔は入間里と云ひ、中頃は入間と云ひ、云々。又斉藤敬天云ふ。入間川は近世むらきし川により名を得たる地なれば古の入間里とは別なり。河越より南に当り、入曽村とて南北二村に分たれたる大村あり。間と曽と草体相似て誤書し来れるにや。これ正しく古の入間里ならんと。余考ふるに俗間の文書に片仮名もて送りを施すもの多し。入間の下に「リ」か「ル」を添書せし転化より後に入曽とはなりけんと思はる云々」と。要するに今日の入間川町奥富村入間村の辺は古入間郷と称せられたるにや、然るに入間川の名も比較的古く存す。

武家と入間川

風土記に曰く、「古の鎌倉街道の跡は小名中宿と云ふ所の裏に当りて、子の神といふ所あり。此処より入間川を渡りて高麗郡広瀬柏原の間に通じて、女影村に続けり。これ正慶中鎌倉攻の時新田義貞上州より打出て、此道にかゝり、入間川にて左近大夫入道恵勝と対陣して終には打勝ち、府中へかゝつて鎌倉へ攻入りしと云ふ云々」と。先之木曽冠者清高、寿永の昔鎌倉を逃れしが、入間川に至て、追手堀藤次親家が郎従藤田光隆に殺されたるは東鑑にも見へたる所、今も清水八幡と称する小祠あり。

義貞は徳林寺に陣し、八幡神社に祈願したりと伝へらる、其後北条時行、新田義宗、義興の通過あり。義宗退軍の時に当ては入間河原も亦古戦場也。足利基氏管領となるや、しばらく入間川に留りて関東を鎮せしことあり。故に基氏を称して入間川殿と云ふ。降て持氏上杉の紛争に当ても、入間川は屡々陣地となる。又上杉対後北条の争にも対陣となりしが如く、後太不記に、氏康八千騎にて入間川に打出て、河越を助けんと陣を取る、云々上杉勢入間川に押寄せ、北条陣を引き、上杉河越へ引き、北条又入間川に出づ云々とあるは信用し得べきや否やを知らすと雖、其戦塵の巷たりしは争ふべからず。

入間言葉

武蔵演路に曰く、「入間言葉と云ふことを伝ふ、そうせよと云ふをさうすなと云ひ、左を右と云ふなども入間里の風俗とすと。謠曲にも「入間川」あり。入間言葉とは蓋し何事をも反対に言ひあらはすことにて、偶々謠曲にも作らるゝに至れる也。之を入間様(よう)と云ふ。

此の月になこをの関や入間様 宗因

夏の日を涼しと云ふや入間様 宗雅

名も知らぬ月は雲にや入間様 立圃

何れも反対に言ひあらはすことを入間様と用ゐたる也。然らば何故に反対の事を入間様と云ふか。是れ興味ある問題也。 喜田博土は(武蔵野及読史百話)其解釈を廻国雑記に求めたり。雑記に曰く、「是より入間川にまかりてよめる。

立よりてかけをうつさは入間川

我年波もさかさまにゆけ

此河に付て様々の説あり、水逆に流れ侍ると云ふ一義も侍り、又里人の家の門、裏にて侍るとなん。水の流るゝ方角案内なきことなれば、何方を上下と定め難し。家々の口の誠に表には侍らず。惣じて申し通はす言葉なども反対なる事共なり。異行なる風情にて侍り。」と。即ち地方の風の何となく趣を異にせるに加へて、入間川は武蔵国中の諸川と方向を異にして、入間川町付近にては殆ど正北に流れ、他の川が東し又は南するに似ざるものなり。此に於て入間様なるものは風流人士によりて凡て「反対」の雅語として用ゐられ、之を入間言葉とも称するに至りしならん。決して入間川町、入間郷の地方の古俗、言語を逆に用ゐしにあらず。若し誤て速断し、入間川の言語凡て逆に解すべしとなすものあらば是れ彼の謠曲入間川に出てたる大名の失敗を繰返すものならずんばあらず。

市街発達の里伝及所轄

村譜考によれば天暦の頃(天暦とは疑はし)佐平治なるもの、入間川の南岸に沿ひて草叢を開き、居を定む。それより一族繁昌し、別に来住するもの年々加はりて、元暦(疑はし)の頃には既に部落を成し、山田郷三芳野里と云ひ、後入間郷と呼びしものゝ如し。南北朝時代には整然たる村落をなし、入間川合戦の時は多数村民徴発に応じ糧食器仗の輸送に任せるが如し。応永年代多治見将監あり。文禄三年松田左馬之助あり。と。

北条役帳に松田左馬之助百五十貫文入間川卯検地辻と見ゆ。江戸時代の所轄は川越領となり、采地となり、支配地となり、幕末の時は其凡ての混合也。故に采地支配地は明治元年知県事に属し、二年品川県より韮山県となり、四年入間県となる。川越領は二年川越藩、四年川越県より入間県(三大区七小区)となり全村一に帰せり。六年熊谷県となる、明治七年戸数三百十五、人口千四百。九年埼玉県に属し、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年上奥富と連合し、二十二年単独の自治体となる。二十四年入間川町と改称す。二十七年以後戸口急に加はる。是れ川越鉄道の為也。而して一方飯能越生方面の産出物資の集散地となり、加ふるに水利の便は工業家の認むる所となり、続々投資経営するもの起りしによる。四十年以来聊か逡巡の観なきにあらずと雖、商工地として進歩の余地あること大なるべし。毎月一五を市日とす。開市の起原は八幡社内、「入間川邨市場之碑」に明也。明治四年に始まりしと云ふ。

小字の主なるもの

市場

昔此処に月々二七の日に市立ちしが漸く衰ふるに及て何時の頃よりか、上宿の方へ移りしに、其後中継して、七月十一日、十二月廿七日のみ市を立てたりと云ふ。今は一五の市也。市場は入間川停車場の北方に当れり。

根曲輪(ねくるわ)

今は余り用ゐられず。又何れの処と詳に知り難けれど、柏原街道に接する水車の付近ならんと云ふ。武人の住せし処にや。

柵ノ内

伝説には義貞姑く滞留せし処なりと、今は余り用ゐられず。徳林寺付近を云ふ。

北部也。小野主計の屋敷跡あり。慶長の頃住せしと云ふ。

田中

峯の北にあり。其豊田氏は大田村豊田の開発に関係あるにや。

田中の東に当れり。

鵜之木

南部に位す。

社寺

八幡神社

八幡山にあり。元弘三年新田義貞が勧請して、弓矢の行末を祈願せし処なりと伝ふ。境内に駒繋松と称する老枯幹あり。社殿華麗也。風景佳也。之を町の鎮守とす。四十二年峯の八坂神社を合祀す。

清水入幡祠

霞野と称する処の、入間川堤防上に存す極めて小なる石造の祠也。清水冠者清高を祭り、往時は社殿を設けしが、洪水の為に其永く存すべからざるを以て、石祠に代へたるものならん。祠に清水冠者の事蹟を刻せり。其終に永享二庚戍之春建也とあり。思ふに其頃初て石造となしたるにや、今の祠は其後の再営ならん。

諏訪神社

大上、清水上と称する処にあり。

子之神社

子之神にあり。古は慈眼寺境内にありしを、諏訪社に移し、明治四十一年現地に移せる也。

天神社

菅原町と云ふ処にあり。

愛宕神社

峯にあり。文化元年社殿造営。

白山神社

上新田にあり。

金比羅神社

男子小学校の丘上にあり。

稲荷神社

同 (男子小学校の丘上にあり。)

徳林寺

菅原町にあり。福聚山と号す、金子村瑞泉院末開山は一樹存松、天文二年寂す。開基は小沢主税なりと云ふ。相伝ふ、此地は元弘三年新田義貞の本陣なりしと。蓋し義貞の武蔵野に戦ふや。疾風の如く、迅速なりしと雖、必ずや其一夜両夜を何れの処にか夜宿して露営せざるべからず。義宗の時亦同じく、若し夫れ足利基氏に至ては久しく此地に関東の機務を覧たり。或は此等の英雄何れか曽て此地に宿せしにやあらん。寺堂大にして境内亦狭からず。

慈眼寺

河原にあり。瑞泉寺末にして、妙智山と号す。正長元年の起立にして、大永年中一樹存松が建立して一寺とせしと云ふ。依て存松を開山とす。存松は徳林寺の開山也。寺堂華麗ならずと雖、境内閑雅也。

成円寺

男子校の地にありしも明治三十四年校舎建築の時廃寺となす。

長栄寺

鵜之木にあり。真言宗にて、根岸明光寺末、元禄二年の建立也。

天岑寺

沢にあり。多摩郡瀧山少林寺末にして天龍山と号す。古、観音堂なりしを天正の頃、東三ッ木の人某一寺とせりと云ふ。付近に名を知れたる寺院也。

安穏寺

田中にあり。熊耳山と号す。天岑寺末、其第六世海峯碧州の創立して隠棲所とせし処也。碧州元文四年寂す。境内は北頭小笠原太郎左衛門安勝の陣屋跡なりと云ふ。

東西寺

峯にありしも明治二年廃寺となる。

古跡及地物

金子家義の宅趾と称するもの

天神下にあり。家義は家忠の子也。

八町渡

子之神五郎坂より広瀬柏原の間の入間河原也。

三芳野里と称するもの

番場上を云ふ。此辺古戦場ならんと云ふものあり。

多能武沢と称するもの

旧蹟考等によれば天神下の沢地なりと云ふ。

加治広忠一族の墳墓

石無坂上の森林中にあり。

将軍塚と称するもの

市場にあり。

古墳若干

藤沢村に接せる森林中にあり。

赤間川用水

承応年間、松平伊豆守の開鑿なりと云ふ。入間川故事覚書に詳也。