野田村開発の伝説
里伝によれば、此村昔時茫々たる曠原なりしを.武蔵七党の中、小野姓野田某なるもの来て開拓に従事し、入間川に沿ひて人家散在したりしが、未だ部落を成すに至らずして野田氏は此の地を去れり、然れども人皆野田氏の創業を欽慕して村名となすと、其後降て天文永禄の頃、西久保、新井、高杉、小林、畑、横田、清水、等の諸氏協同して道路を開き溝粱を穿ち、田畑を作り爾来人口漸く増加して、遂に今日に至る、故に村民は之を村の草切七家と称し、その子孫を以て従前の村吏に推せり。
里伝によれば、此村昔時茫々たる曠原なりしを.武蔵七党の中、小野姓野田某なるもの来て開拓に従事し、入間川に沿ひて人家散在したりしが、未だ部落を成すに至らずして野田氏は此の地を去れり、然れども人皆野田氏の創業を欽慕して村名となすと、其後降て天文永禄の頃、西久保、新井、高杉、小林、畑、横田、清水、等の諸氏協同して道路を開き溝粱を穿ち、田畑を作り爾来人口漸く増加して、遂に今日に至る、故に村民は之を村の草切七家と称し、その子孫を以て従前の村吏に推せり。
里伝によれば、治承年間、新田大炊助義重入道浄西郷司職に補せられ、(元弘年間加治豊前守家茂より累代之を領し、天正年間北条氏照に属し、旗下加治左馬助(加治氏此時氏照に従ひしと見ゆ)をして之を支配せしむ、天正十八年徳川氏の直轄地となり。代官の支配、正徳元年川越領となり、秋元氏四代、松平氏三代にして、天保二年再び秋元但馬守知朝(館林藩)に帰し、若狭守久朝に伝えしが、弘化元年、復、松平大和守の領に帰し、三代相伝へて明治二年前橋藩と称し、四年前橋県と改め同十一月入間県に入り、十七年根岸外四村連合戸長役場に属す、二十二年元加治村となる。
野田の中央に位し、飯能、入間川間の街道に面せり、村社也。寛永元年三月、三浦某の勧請にして、同十年村の鎮守と定めたりといふ、寛文及元禄の検地帳には除地たり。四十年無格社八坂神社を合祀す、末社十一あり、千機社、稲荷社、山王社、八幡社、天神社、白山社、愛宕社、水神祠、丹生社、厳島社、浅間社是也、境内広濶、樹木茂れり、西隣は元加治小学校なり。
街道の北に位し慈眼山と号し曹澗宗通切派直竹村長光寺末也、享保、寛政の両年度火災あり、古記、烏有に帰し創立の年紀を詳にせざれども、伝語、墓碑等によれば、直竹村長光寺より独住存賢禅師来り此寺を開く。長禄元年二月寂す。其後元和五年長光寺八世庭庵慶徹和尚中興す、寛永六年寂す、本堂あり、小堂あり、鐘を本堂の軒に掲ぐ。
村の西南隅に当り入間川に近し、真言宗新義派高麗村聖天院末、土御門天皇の時、加治左衛門尉家秀及野田与一経久なるもの元久二年六月二十三日武州都築郡二俣川に於て畠山重忠と戦ひて討死す、依て其子の加治豊後守、田沼宗茂父の菩提のため円照上人(俗姓加治氏、父は刑部亟盛道)と一寺を建築し光明山正覚院円照寺と号し、加治氏累代の香華院たらしむ、円照宝治二年八月寂す、其後建長年間火災あり、康元元年加治左衛門尉、田沼泰家に咨り尊永上人(俗性不詳)と諸堂を建り、多治比氏の氏神、丹生明神を勧請し、寺門守護神となす、康元より元亀、天正に至る三百余年間寺門の盛衰ありと雖、加治氏の尊敬する所たりしは其累代の墳墓によりて知る。天正年間聖天院二十五世円真上人退老して此寺に住し朝弘法師に法を伝え嗣住たらしむ、依て法師を中興とす、当時三浦城之助某といふ者資を投じて之を賛助す、依て三浦氏を大旦那とす、境内には門徒金蔵寺並寺家七戸俗に門前百姓といふものあり、凡て当寺に隷属しき。今の本堂は元禄中の建立にして特に壮麗ならずと雖、又卑野ならず、加ふるに士地高くして、三方開闊なる、泉池の清浄にして、雅致ある、厳島祠の閑雅なる、金剛殿と記したる一堂の厳然たる、境内の風致実に絶好なりと云ふべき也。金剛殿の後方に元丹生明神あり、明治の始め之を白髭神社に合せりといふ、泉池の中に七不思議あり、後方の竹林中に加治氏代々の墓石あり。